MAR.26 and APR.9.2008
ゲーム機は世界の境界に構え、
血統論は現実のなかに境界を形成する
われわれが競馬シミュレーションゲームで血統をきちんと取り扱える理由を、「プレイヤーはみずからゲームを殺しにいかなければならない」では現実世界と競馬ゲーム世界の相違から見いだすことができた。競馬ゲーム世界では血統論がすでに書きこまれた完成品の法則として存在しているから、それを疑う必要は一片たりともないというわけだ。ここでプレイヤーはとうぜんその法則を知っている。それは攻略本やネット上の攻略情報を見れば一目瞭然のことであり、たとえ情報を避けていても長くプレイしていれば自然に気づくことだ。ゲームがクリアされることを望む以上、優秀なプレイヤーがゲーム内に設定された既知の法則に対して従順に振る舞おうとするのはそうすることが優秀性を証明するためにもっとも合理的だからにちがいないが、しかし同時にその判断がゲーム世界の内側に深くコミットメントするものとしての理屈でしかないことに気づく必要もあるだろう。競馬ゲームにまつわる言説を辿っていくと、プレイヤーにはある視点が欠けているように感じられる。競馬と競馬ゲームにかんする話の締めとして、その視点がなんなのか、またそれがなぜ欠けているのかを、関連2エントリに対するカウンターとしての役割も期待しつつ明らかにしたい。
「ルールはスタンド・アローンに」で述べたとおり、「ゲームを作るとは世界を創ること」である。マリオが地面さえあればどれほど高いところから落下しても死なないことや、逆にそれほど害意をもっていないように見える亀に横から接触するだけで死ぬことは、『スーパーマリオブラザーズ』というゲームが誕生した瞬間に形成されたひとつの世界の根幹をなすルールだといっていい。マリオの能力がわれわれとあきらかに異質であり、ゲームのなかに広がっているのが現実でない独立した世界であることは、プレイを通じてたしかに確認されている。「『スーパーマリオブラザーズ』をプレイする」とは、その世界に入りこんで独自の法則を受けいれたうえでマリオ(ルイージ)として振る舞うに等しい(あまねくゲームはプレイヤーにロール・プレイングを要請する)。それはたしかにそうなのだが、マリオがステージを進んでいるとき、プレイヤー自身がその振る舞いを現実世界から観察していることもまちがいないだろう。ゲームのプレイヤーは現実からゲームに対して入力をおこなうことで現実と無関係に営まれているゲーム世界にコミットし、そこから出力された反応の情報をゲーム世界とは別の法則で運動している現実で手に入れる――そして、その往復を連続的に繰りかえすことによってゲームはプレイされる。この瞬間われわれは、行為者かつ観察者であり内部者であると同時に外部者であるという特殊な状態にその身を置いているのである。
このように内部にいながらにして世界を俯瞰できることで、あるいは外部の視座を持ちつつ世界にコミットできることで、「プレイヤー」は「ゲーム世界やキャラクターに同化し、内側の存在としてある目的に向かって行動すること(クッパを倒し、ピーチ姫を救出するなど)」と「ゲーム世界の外側から、ゲームに対してなんらかの入力をおこなうこと(十字キーでマリオを動かし、Aボタンを押してジャンプするなど)」という二重の意味での「(ロール)プレイ」を経験することができる。ここにおいて、ゲームをプレイすることはもはや単層的な行為にとどまらず、複合的な批評精神を獲得する機会となるだろう。だれだっていちどくらい、『スペランカー』の主人公が自身の身長程度の高さから落下しただけで死ぬことや『ドラゴンクエスト』で民家のタンスを住人の在不在にかかわらず堂々と漁れることを、それらのソフトをプレイしながら自分たちの世界ではありえないとして笑いのターゲットに据えたことがあるはずだが、これはゲームに対して外部に位置することもできるからこそとれる高度な批評的態度である。逆を想定すればその態度の輪郭はよりはっきりする。つまり、現実世界の人間が自力で空を飛べないことを批判できないのは自分自身が現宇宙の物理システムに組みこまれているために追及じたいが無意味になってしまうからだ。内部にとどまりつづけるかぎり自分がいる世界そのものは解析できても批評できない。それをするにはいったん外部に脱出するしかないのである。ゲームの価値は、ほんらい困難なその脱出をあっさりとプレイヤーに達成させてしまうことにあるといえるだろう。ゲームで遊ぶことで、ひとは新たな視座を得る。しかもその視座はおよそあらゆるゲームで有効だ。500年も市長をつづけるなんてありえないといいつつ、『シムシティ』の日付は2487年を指している。RPGでモンスターが金を持っていることに疑義を呈しながら、それらを倒して得た資金で武器と防具を買いそろえることはいとわない。われわれは内/外のあいだを横切るスラッシュを一度ならずかんたんに乗り越えている。その自由な往復はプレイヤーに与えられた特権である。
競馬シミュレーションゲームをプレイするときも、その特権的な往復は十全に機能する。つまり『スペランカー』や『ドラクエ』のキャラクターの振る舞いを笑うように、『ダービースタリオン』で「ナスルーラのインブリードでスピードアップと気性が悪化」することを、そんな都合のいい話があるものかとばかりに笑ってもいいのである――むしろそうしなければならないはずだ。すでに見てきたとおり、現実の馬産でそのように決まっているわけではないのだから。だが寡聞にしてそういった言及はあまり聞こえてこない。どうやら競馬ゲームのプレイヤーは「すでに確定された血統論」を信じることになんの躊躇も感じていないように思われる。もちろん内部的な振る舞いとして世界にしたがうのは合理的な必然として認められるが、その合理性が内部でしか通用しない以上、外部にまで拡張する理由はどこにもない。にもかかわらずそのような態度はしばしば見受けられるのだ。たとえば「ご利用は確率的に」で紹介したわたしの旧友が『ダービースタリオン』の設定を追認するがごとく(実際に追認したかどうかはわからないが、ここでの事実はどちらでもいい)Devil’s Bag産駒を早熟だと断じていたことは、そういう傾向の存在を端的に示唆していよう。「競馬ゲームのプレイヤーに欠けている視点」とは、世界を俯瞰して外部から批評するためのそれである。いや、むしろそれをみずから手放し、ゲーム内で形成されるだけの世界と現実をきわめて無批判に結びつけて、その世界を貫く法則に真実の蓋然性を見いだそうとしているとさえいえるだろう。そこになんらかの理由の存在を明らかにして競馬ゲームにまつわる一連の話を終えることにしよう。
競馬ゲーム、もちろん競馬ゲームにかぎらないが、それらはひとつの独立した世界であって、プレイヤーの側から親切に現実とリンクさせてみせる必要はとくにないはずだ。それどころか、むしろリンクを無視することがゲームを楽しく遊ぶコツでもある。見てきたように『スーパーマリオブラザーズ』をプレイしていれば、マリオを高いところから飛び降りさせても平気なことにはすぐ気づくだろう。このとき「身長の5倍の高さから落下したらふつうは助からない」などと考えてジャンプをためらっていてはいつまで経ってもゲームを進められないから、プレイヤーは積極的にその疑問を無視しなければならない。その無視を繰りかえしてプレイするうちにわれわれは自然と「マリオはマリオ、自分は自分」であるということを理解するわけなのだが、競馬ゲームはそのような理解をほかのゲームほどには喚起しないように思われる。『ダービースタリオン』(以下『ダビスタ』)における「ナスルーラのインブリード」は、たしかに「生まれてくる競走馬のスピードを上げるが、気性難も誘発する」ものとして納得されているのではないだろうか。その理由を探っていくうえで、毎回のことで申し訳ないが「Devil’s Bag産駒が早熟である」という発言をしたわが旧友にみたび登場してもらうことにしよう。
1998年にわれわれがもっとも熱心に遊んでいた競馬ゲームはプレイステーション版『ダビスタ』で、それに海外種牡馬として登場するDevil’s Bagは早熟傾向のある種牡馬として設定されていたと記憶しているが、推測するに、わたしの旧友はそれに引きずられて安田記念出走当時のタイキシャトルを力が衰えはじめているのではないかと指摘したのだった。その指摘は幸福なことに外れた(これが当たっていたとしたら日本の競馬ファンの悲願が一気に果たされたあの2週連続日本調教馬海外G1制覇が成し遂げられていなかった可能性もあるのだから、外れたことは幸甚の至りである)が、ここでわたしが試みたいのは、彼に対して「現実とゲームの区別がついていない」などというばかげた批判を展開することではない。彼はまちがいなく、その「早熟」が『ダビスタ』における方便だということは理解したうえで、それでも援用して不都合がないと考えて「タイキシャトルの衰え」に言及したはずである(ここでその議論の正誤がもはや問題とはならないことは明らかだろう)。考えるべきは、理性的なプレイヤーに現実とゲームを関連づけさせようとする構造がどこかに存在するのかどうかという点に他ならない。
すでに幾度かにわたってまとめてきたように、競馬における血統論は確率的にしか語りえないものであるのに対して、競馬ゲームにおけるそれは確定的な記述としてそこにある。ここにはたしかにその取り扱いかたに対して大きな相違が見て取れるが、しかし同時に、ふたつの異なる「血統論」を結ぶ強力なツールとして、われわれが「血統表」と呼ぶものの存在を無視するわけにはいかないだろう。競走馬の生産という場面のみにポイントを置いたとき(一連のエントリで一貫してレースシーンを扱っていないことをここで念押ししておく)、現実世界とゲーム世界で唯一共通性を見いだせるとしたら、それはこの血統表のはずである。たとえばタイキシャトルをまた例に取るなら、そのような名を与えられた栗毛の競走馬はどちらの世界にもたしかに1頭存在し、バックボーンとしておなじ構成の血統表を持っている。もちろんどちらの血統表も、現実では積み重ねられた歴史によって、ゲームでは「そういうもの」として、それが「正しい」ことは証明されていよう。血統表は、その記述のされかたがまったく同一であるがゆえに(とうぜんそれが同一なのは後発世界であるゲームが現実を参考にしたからであるが)、現実とゲームを強く接続する。
とはいえ、たんに共通の要素を持っているというだけの理由でプレイヤーが現実とゲームを接続しようとするわけではない。野球ゲームと野球、あるいはサッカーゲームとサッカーなどは競技規則や運動の表現などを同じくするが、これらを同一視するプレイヤーは基本的にいないと考えていいだろう。もちろん、その理由はゲームが(現実をまねしようとしたときに)微妙な動きを再現できないことや、「レースゲームがつながる現実」で書いたように運動の仕方がまるでちがうということに求めることができる。いってみれば概観が似ていても、あるいはむしろそれゆえに、すこしの違和感がかえって増幅されて感覚が現実と乖離する結果を生むのである。だが血統表を中心に見たとき、競馬/競馬ゲームのあいだには違和感をみつける余地がない。それについて、おなじ表が書かれているだけだからとうぜんだろうと論じればいいだろうか。じつはそうではない――いや、そうなのだが、「おなじ表が書かれている」ことそれじたいを重視しなければならないはずだ。血統表はきわめて静的な記述として、現実にもゲームのなかにも置かれているが、これは見過ごされがちな競馬ゲームの特徴である。こういういいかたをしてみよう。野球をゲームにするときに必要なのは「運動の記述」だが、競(走)馬(の能力判定)をそうしようとするならば、なされているのは「記述の記述」であるはずだ、と。
たとえば根強い人気を誇る野球ゲーム『実況パワフルプロ野球』シリーズの『14決定版』において、ソフトバンクホークスの多村仁外野手には「弾道:3 パワー:119・B 走力:10・C 肩力:10・C 守力:12・B エラー回避:11・C(ついでにいうと特殊能力「ケガしやすい」がとうぜんのようについている)」、あるいは横浜ベイスターズの三浦大輔投手には「最高球速:146km/h コントロール:140・C スタミナ:156・A 変化球レベル:カットボール2、スローカーブ3、フォーク2」という能力値を与えられているが、彼らをはじめ全選手に割り当てられているこれらのパラメータは、しかしいうまでもなく「嘘」の集合である。もちろんこれは、コナミの能力査定がいいかげんで真の能力を反映していないという意味での嘘ではない。たしかに「コナミは野球を知らない」というむやみな断定とともにされる批判はネット上で散見され、真の能力は自分たちこそが知っているとばかりに能力査定のやりなおしをしているところ(おもに『2ちゃんねる』の当該スレとか、それのまとめwikiとか)もあって、しかも言うだけあってそちらのほうがよりファンの感覚に近いように思えなくもないのだが、とはいえどれだけパラメータの数値に真実味があったところでしょせん嘘であることになんらの変わりはない。
多村仁の「パワーB」「ケガしやすい」は、この虚弱な強打者についてなにか語っているようでいながらじつのところなにも表してはいないのだ。それらのパラメータはたしかに多村らしさを示しているが、しかし多村ではありえない。なぜならゲームで多村を描こうとするとき、彼のプレイはすでに終えられている。残っているのは記録と名付けられた運動の結果をわずかにうかがわせる残滓だけだ。語られてしまった選手は、すでにその選手ではないという単純な事実がここにはある。野球と野球ゲームは「野球→野球ゲーム」のように直結はされず、かならず記述という欺瞞を仲介役にすることによって「野球→記述→野球ゲーム」のかたちで変換されてしまう。このとき、もはや野球ゲームは「野球にかぎりなく似た別の競技」を表現しているにすぎない。われわれに現実とゲームの断絶を認識させるのは、このように運動をいったん停止して記述しようとする試みだということができる。
だが、ある血統で構成されて生まれた現実の競走馬の特徴は、その根拠を血統表というすでに記述されたリストのなかに見いだそうと試みることが可能だ。ここで「血統表から能力を探る」というのは、表に書きこまれている各先祖を記述的なパラメータとして扱うことに他ならない(パラメータとして定量的な価値を与えないと、一定程度たしからしい理論として成立しない)。そしてすべての血統論は、現実においてもゲームにおいても、血統表をもとに編みだされて運用される。たとえその発想がきわめて恣意的で推理とも呼べないような妄想でも、競馬ファンのなかにそうしようという傾向が存在しうることは、「ご利用は確率的に」で見たとおりだ。つまりあらゆる血統論(これには「Devil’s Bag産駒は早熟である」というきわめて単純な推測など、種牡馬・繁殖牝馬自身の能力規定を含む)が競走馬の能力の根拠を静的に記述しようとする試みであるならば、それは現実でつねにおこなわれているのである。ここに競馬ゲームと野球ゲームの違いがある。もし両者がおなじような構造を持つなら、競馬ゲームも「競馬→記述→競馬ゲーム」と接続され、ゲーム世界の理屈を現実に援用するのはためらわれたのかもしれない。しかし血統論という欺瞞的な装置があるために、競馬とゲームの関係は「(競馬→記述(=血統論))→競馬ゲーム」と変わることになる。ほんらいなら現実とゲームを断絶させるための記述が現実の側に内包されていることで、両者は直結されてしまう。
競馬ゲームは現実の競馬に対して嘘をつこうとしていない。たとえゲームには現実の血統論ではありえないような荒唐無稽な理論が設定されているという論難があろうとも、そこには「現実の血統論」とやらがすでに荒唐無稽だという反駁が用意されている。記述がつねに嘘をはらみ、その嘘によってプレイヤーに断絶がもたらされるのだとするなら、現実が嘘を引き受けてくれている競馬/競馬ゲームの関係は、きわめて真実味を帯びることになるだろう。「Devil’s Bag産駒のタイキシャトルは早熟」というその推測は、結果的にまちがっていたにしろ、思考のプロセスとして問題のあるものではなかった、わが旧友を擁護するならば、そういうことだ。
――ところで最後に、だとするならば競馬ファンは「競馬/血統論」の断絶を感じ取っていなければならないはずだ、という疑問がとうぜん湧いてもいいはずである。今回の例でいうならば、『ダビスタ』の設定をもとに現実のタイキシャトルを早熟と判断しようとするのはよいとしても、その現実のなかでそれが通用するのか疑問に思わなければならないではないか、と(それはまさしく「ご利用は確率的に」でいいたかったことだ)。しかしそれは仕方ない、馬券を買うという自分の行動に対して正当性を欲するのはたぶん自然な感情なのだから。つまりけっきょくのところ、われわれは無根拠に買い目を選んでいるわけではない、と信じこみたいのだ。ここでは、血統論は自分が論理的に振る舞っていることを擬似的にであっても証明してくれるツールのひとつとして機能するがゆえに有効だ、といえばじゅうぶんだろう。自己満足? あるいは、かっこつけ? いいではないか。しょせんは25%を控除された勝ち目の少ない賭けである。