as red flag - reviews about game

under chequered flag

MAR.12.2008

プレイヤーはみずからゲームを殺しにいかなければならない


 競馬における血統論は基本的に過去の競走馬が積みあげてきたレース結果に対する知見の集成であって、いわば社会学的な営みの果てにつくられたものにすぎない、という主旨のことは前回記した。競馬新聞を開けばあらゆるページに「血統」の2文字がうかがえるような現状にあわせて馬券を買っているとつい忘れてしまうが、ニックスやインブリードやドサージュといった血統(配合)理論は、けっしてア・プリオリな法則と証明されているわけではないのである。
 たとえばニックスは特定の父と母父の組み合わせから優れた競走馬が生まれやすいとされる「理論」であるが、これも過去の成功体験の積み重ねからなされたひとつの推測であり、その成功例が平均に対して有意に多かったとしても(前回と同様、ほんとうにバイアスが認められるのかどうかに対する疑義は措くことにする)、これから生産すべき競走馬について「ヘイルトゥリーズンとノーザンダンサーを合わせれば能力アップ!」という無邪気なデジタル思考で配合を決めることの有効性を保証するものではない。競馬ファンはつねに惑わされている。たしかに目の前のサラブレッドは結果を残しているのだが、しかし結果から原因に遡行しようとする試みは絶望的だ。あらゆる要素は複雑に絡みあいすぎているし、かりに根拠を血統の解析だけに求めてよいという大きな(そして無意味な)譲歩を認めたとしても、やはりそこから理論の正誤を検証しようとするのはRSA暗号の解読に暗算で挑むような無謀を感じさせる。血統で能力が確定的に決まるという妄想は、ゲームのときにだけすればいい。
 そう、ゲームだ。われわれの手元には、『ウイニングポスト』とか『ダービースタリオン』、あるいは後発の『ダービー馬をつくろう!』などの「競馬シミュレーションゲーム」があり、いつでもプレイすることができる。これらのゲームで強い競走馬を生産しようと決意するならば、現実同様かならず血統について深く考えることになるだろう。ニックス、インブリード、ラインブリード、ニトロ、因子、活性化……能力の底上げから気性の良化の効果があるものまで、採用すべき「配合理論」を挙げていけばきりがない。われわれはこういった理論を駆使し良質の配合を練りあげることによってよいプレイヤーであることを証明しようとするのだが、しかし、ここでひとつの違和感に突きあたってもよい。競馬ゲームを少しでも熱心にプレイしたことのあるひとなら、ゲーム内の配合理論がプレイヤーの振る舞いとは無関係にプログラムとしてつねに/すでにゲーム世界に存在していることを知っている。この仮想世界のなかではある理論がもたらす効果はつねに一定だし、ゲームのスタート時点から時代が100年進んでいっても理論そのものは変わらないのだ。現実の血統論は確率的に馬産家を翻弄し、つねに書き換えの可能性にさらされているが、競馬ゲームのそれは無謬の理論として世界のなかにありつづけ、血統が能力を決定するという妄想も真実へと切り替わる。ここにはたしかに、血統論において現実と競馬ゲームのあいだに生じている「経験的な推測/決定された法則」という齟齬を――良し悪しではなく齟齬があるという単純な事実を――見てとることができる。この齟齬によって競馬ゲームはどちらに進むのだろうか。

 もはやいうまでもなく、現実の馬産の世界でセオリーを定式化することは不可能である。効果があると伝えられているニックスを配置してみたところで、強固なインブリードで先祖の形質を顕在化させようとしたところで、その効果が現れるかどうかはいつまでも(実際に生まれたあとでさえ)わからない。効果が現れたという過去の実績があったとしても、そしてその有効性をかりに認めるとしても、それはしょせん確率的に出現した成功例のひとつにすぎないのだから。もちろん過去の観察から未来の成功確率を上げようとすることはじゅうぶんに合理的な努力だと考えられるが、しかし同時に最適ではありえない――というよりもこの営みには最適な選択そのものがありえない。かりにディープインパクト級のサラブレッドを生産できたとしてもおなじことだ。「もっといい配合があったかもしれない」可能性は、潤沢なリソースをもっていてすべての選択肢を自由に選べる状況にあるというきわめて幸福な前提をおいたとしても、検証不可能な問いとしてなおつねに残る。
 だが競馬ゲームでは、すべての配合理論が確定された法則として眼前に横たわっているために、プレイヤーは手持ちの繁殖牝馬と繋養中の種牡馬から、最高の能力をもつ競走馬が生まれる配合を決定的に選択することができる。現実がゲームへと落としこまれた段階で、「そんな気がする」であった馬産という営みは確定された「そうである」へと変換されている。ベストの配合は文字どおり理論的に唯一であり、その他の選択肢はつねにそれに敵わない。先ほどとは逆に時間的な制約などですべての選択肢を検討する余裕がないという状況――たいていのプレイヤーはそうであろうが――を想定したとしても、計算可能な最適解がゲーム内のどこかにかならずあることを疑う理由はない。もちろん産駒の能力にばらつきが出るように乱数は設定されているはずだが、それが本質的な問題とならないことは明らかだろう。どの配合を選択しても、乱数による「成功/失敗」は等しく起こりうるから、やはりプレイヤーが選択すべき配合はかならず最適なひとつとなる。運悪く能力に恵まれない競走馬が生まれてしまったとしても、それは想定された(既定の)理論に内在した範囲の不運にとどまり、選択の無謬性を揺るがせはしない。現実の血統論が不安定な帰納を積みかさねてつくりあげる物語じみた虚構(血統はしばしばロマンと称される)だとするならば、競馬シミュレーションゲームのそれは唯一の正解を現出させてみせる実験である。いってみればこれは複雑に絡まりあったにすぎないパズルのひとつであって、プレイヤーが合理的であろうとするかぎり、ゲームで採るべき行為は与えられた選択肢からより最適方向に進むものを抽出することだけだ。なすべきことはつねに決定していて、その他を選ぶ合理性はない。
 競馬ゲームが仮想しているのはいわば一意的な「最適世界」である。この世界はパズルがそうするようにプレイヤーに対して唯一の正答を求めるが、同時にプレイヤーもまた、優秀であればあるほど、そういう世界の要請にしたがうようになるだろう。じっさい自分が真剣な競馬ゲームプレイヤーだと自任するなら、『ダビスタ』でも『ウイポ』でも『ダビつく』でも、手元のソフトの繁殖牝馬の記録に残っているそれまで交配した種牡馬の履歴を振り返ってみたとき、毎年毎年飽きもせず1頭の種牡馬を付けているみずからの振る舞いにあらためて気づくことになるはずだ。プレイヤーは、ひとつの選択肢を絶対的な正解と見なせる世界に組みこまれているために同一の種牡馬を選びつづけることができてしまう。すべての能力値は事前に計算可能であり、ひとつの選択肢が翌年誕生する競走馬の能力をもっとも高めると決定したなら、その他がこれを上回ることは理論的にないとわかっているから、事象の可能性を一意に定められない現実でつねに悩まされる「もっといい配合があるかもしれない」可能性はもはや考慮されない(この時点で問題となるのは最適かどうかではなく最適を求める世界に順応してそのように振る舞おうとしているかどうかであり、そこでなされている選択の正解/不正解はまだ問われない)。おなじ名前がずっと連なるその履歴からは、プレイヤーが既定の理論を知ってしまったさきに目指さざるをえなかった最適化の残り香が漂う。
 最適世界で選ぶべき解はつねにひとつだ。だからもし万能で合理的なプレイヤーたちが競馬ゲームをプレイしつづければ、彼らはつねに正解を選びつづけることになり、結果的に全員がまったくおなじ状況、タイミングでエンディングを迎えることにもなるだろう(もちろん、乱数を考慮に入れないという条件付きで)。それはすこしぞっとする光景だが、しかしやはり競馬ゲームは原理的にスタートの瞬間からゲーム的飽和に向かって収縮しはじめるというしかない。最後を決めるのは、最初である――ラプラスの悪魔の復活だ。古典物理学において不確定性原理に裁かれて追放されたはずのこの悪魔は、合理的選択の決定性に身をやつしながらも、プログラミングされた箱庭のゲーム世界のなかに生まれ変わっている。
 競馬シミュレーションゲームが決定論に支配されざるをえない可能性は見えてきた。しかしだとしたら、それをゲームと呼んでもいいのだろうか? すべてがすでに決定しているなら、競馬ゲームのプレイは、不毛な(プレイヤーとゲーム機の関係においてゲームをプレイすることが不毛だというなら、あらゆるゲームがそうである可能性をもつが、そうではなく、ゲームの世界に対する入力という意味で不毛な)作業になってしまうではないか。たしかにそうかもしれない。古典物理学のラプラスの悪魔をハイゼンベルクが退治したとき人びとが安堵したように、決定論的世界観には不愉快がつきまとう。だれしも自分の未来の決定権くらいはみずからの手に収めていたい、最後にいたる道筋が決まってしまっている世界で、最初からなにかをなそうとすることは無意味なはずだ……だが、これらの問いかけに対しては合理的に振る舞おうとした結果として残された先ほどの履歴が真に合理的な選択でなかった可能性を指摘することで回答とできるだろう。理論的に最適な選択肢を決定できることとプレイヤーが最適な選択肢を決定できることはイコールではない。たとえば将棋は、チェスは、あるいは碁は、最適な初手が最適な2手目を呼び、その2手目が最適な3手目を導き……といった具合に、最善手の追求の果てにいつか先手/後手を選んだ瞬間に勝敗もしくは引き分けを決定されてしまう運命にある。その最善手の応酬が知れ渡ってしまえばこれら伝統的ゲームは成立しなくなってしまうが、羽生善治もディープ・フリッツも本因坊秀策もその境地には遠く――それこそ国内旅行と宇宙旅行ほどの隔たりで――及んでいない。これはRSA暗号の解読が質的にではなく量的に困難であることに似ているが、だからこそ、彼らはプロとして、プロを破るコンピュータとして、歴史に名を残す偉大な棋士として意味を持つことになる。能力の欠如によって、合理性の帰結による選択の余地なき決定論は回避される。
 競馬シミュレーションゲームもまた、この列にそっと加わる資格をわずかながらに有していよう。このゲームの最適化への壁が将棋などより低くとも、完全な解析に辿りつくことは(コンピュータゲームの「寿命」を考えるとなおさら)ないはずだ。われわれが優秀なプレイヤーでありたいなら、たしかに合理的に振る舞うしかないが、しかし能力の限界ゆえに合理的に振る舞えない。そして、この振る舞う/振る舞えるのあいだを隔てる量的な溝に向かって飛びだそうとすることこそが、競馬ゲームのプレイを有意義なものへと導くのだ。最適世界では(そこが「かならず合理的選択をする」法則をもつなら、そこだけに生きる)ラプラスの悪魔を追放できないが、優秀なプレイヤーは、いま高々度を浮遊していて視界に入ってこないこの悪魔の元へ、その行為がゲーム的死をもたらし、究極的にはみずからの首を絞めることを承知のうえで、なお辿りつこうとする。それはいわば神へと近づく営みだ。将棋やチェスや囲碁がそうであるように(名作コミック『ヒカルの碁』(集英社)に登場する幽霊の目的は「神の一手」に着手することであった)、理論的な最適解と自分のできるかぎりの合理性との乖離を埋めようとするプレイヤーの踏みこみによって、競馬ゲームはそのゲーム性を充足する。重要なのは、あえて不合理に振る舞うのではなく、あくまで有限な能力の限界において合理的に振る舞おうとしながら力が及んでいない状態こそが、美しいプレイになるということだ(へぼ将棋はたんに、へぼ将棋である)。ラプラスの悪魔は、たしかに見つけてはならない。だが同時に、見つけようとはしなければならない。


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