FEB.28.2008
ご利用は確率的に
それは安田記念がおこなわれる2日前の金曜日の会話ということにしておけば、1998年6月12日のことだったととりあえず確定させることができる。直近の京王杯スプリングCを制した前年の最優秀短距離馬タイキシャトルが大本命として臨むこの府中のマイルG1を話題にしていたとき、いまも親交のある旧友が、「でも血統的にDevil's Bag産駒は早熟だからね」と口にしたのだった(*1)。だからタイキシャトルは敗れるのだと彼はいいたかったにちがいないわけだが、べつにタイキシャトルがそうとは限らないだろうというわたしの反駁が正しかったか、周知のとおり2日後のレースでこの年の年度代表馬は悪天候のなかを圧勝する。当時高校生だったわれわれはとうぜん馬券を買ってはいなかったものの、彼がみずからの理屈を実行に移していたなら、確実に財布を軽くしていたにちがいなかった。
タイキシャトルの引退までの足跡を振りかえれば、ジャック・ル・マロワ賞まで制したこの栗毛の名マイラーに対するわが友人の「血統的」な見立てが完全に見当違いだったことは明らかだ。それを10年後から振り返るのはいかにも結果論のようではあるが、しかしそれ以上の意味もある――そう、彼の発言にはたしかに誤謬がある。その誤謬はおそらく、「血統を考えることで馬券の的中率が向上する」と信じている人間がほぼ例外なく落ちる陥穽だといっても、そうまちがってはいまい。
もちろんここで「血統という概念は非科学的だから役に立たない」と論じることもできる。じっさい、条件を整えられないために統計として扱えないうえ、再現可能性もないことは、血統論を科学と呼べないものにしていよう。しかし今回はそれについては措かせてもらい、われわれが感じるように遺伝という概念が存在して競走馬の特徴になんらかの影響を及ぼしており、その遺伝は血統に依存する、という前提を受け入れて話を進めよう。
さて彼があのとき言及したような早熟/晩成といった成長傾向もそうだが、血統から馬券に役立つ情報を読みとろうとする試みとしてもっとも代表的なのは、いわゆる「距離適性」にかんすることだと思われる。血統を見ればその馬が競走に耐える距離の下限と上限を判定できるという思想は多くの競馬ファンが程度の差こそあれ信じており、しかもたぶんその信奉の歴史は連綿と続いているはずだ。たとえば1977年の菊花賞馬プレストウコウは戦前「グスタフ産駒に3000mは無理」といわれていた(*2)ものだし、もうすこし時代をくだれば「短距離血統」といわれるマグニチュードを父に持つ1992年の年度代表馬ミホノブルボンは、マイルの朝日杯3歳S(当時)を制したのち、1800mのスプリングS、2000mの皐月賞、2400mの日本ダービー、3000mの菊花賞とレースの距離が長くなるたびに「これ以上はもたない」と指摘されつづけながら、結果的に最後のレースとなった菊花賞でこそライスシャワーに敗れ三冠の夢を絶たれはしたものの、しかし結局すべてのレースで連対してみせた。21世紀にはいるとこういう極端な否定のされ方はずいぶん減ったような気もするが、それはたぶんほとんどの年で距離万能型と目されるサンデーサイレンス産駒が主役だったゆえにわかりやすい不安がなかっただけであり、とくに長距離において血統的な観点がものをいうという考え自体が薄れたわけではないことは、菊花賞や春の天皇賞を検討する専門紙やスポーツ紙に「血統的には」という文字がやたらと躍ることを見れば容易に理解できる。しかし、やはり多くのひとに覚えがあるようにそういう根拠で購入された馬券はたいてい外れ、そして外れが積み重なっていくうちに「血統はわからない」(プレストウコウが菊花賞をレコード勝ちした翌日、スポーツ紙は「血統論は不要」という論調に占められていたそうだ)という気分になるひとが増えていくのである。だが血統で馬券を買って失敗するのは、「血統が無意味」だからでは、もちろんない。血統は競馬にとっておそらく有意義な要素だが、しかし馬券とはどうしても相性が悪い、ただそれだけのことなのだ。
自分だけは次のレースの結果を的中させることができるとばかりに自意識を肥大化させて馬券を買っているとときに忘れがちなことだが、血統論はより良質な血を残して競走馬を強化するための品種改良の営みの集成であって、馬券購入者たるわれわれのためだれかが親切に提供してくれているものではない。情報がすべて自分のために存在していると思ったら大間違いだ。競馬新聞の馬柱にならぶ「父○○、母△△」は専門家が検討した情報の残滓でしかなく、競馬ファンのためにおこなわれる馬体重の公開や出走馬のパドック展示とはちがう。たとえば『ウイニングポスト』や『ダービースタリオン』のような競馬(競走馬の生産・育成)シミュレーションゲームをみずからに引きつければ理解が早くなるだろうが、血統を真に不可欠なものとしているのは生産者だけといってもいいすぎではない。そのことを謙虚に自覚することができたなら、つぎに、生産者がある血統(=父母の配合)を考えているその瞬間、検討中の血統をもつ競走馬がまだ生まれていないということの重要性を認識しよう(*3)。つまり生産者が血統を利用するのは、1年後に生まれてくるだろう未知のサラブレッドの特徴を、似たような血統構成をもつ過去の競走馬群の傾向から予測するためなのだ。現実にそこまで考えている生産者がどれほどいるかどうかはともかく(というか知らないが)、血統とは本来的にそういうものでしかありえない。血統論は、統計的(*4)な確率としてのみその価値を充足する。
そして裏を返せば、「確率的に取り扱われること」こそが、血統が競馬場で役に立ちづらい理由となるのである。いま東京競馬場のパドックで特定の競走馬の単勝馬券を購入しようとしているとき、その対象はすでになんらかの特徴を持った1頭のサラブレッドであり、血統的背景とは無関係にそこに存在する。その馬は重厚な血統でありながら意外とテンが速いかもしれないし、ひどい気性で距離がもたないかもしれない。全兄・全姉はマイラーなのに、なぜかスタミナに充ち満ちているかもしれない。名牝を母にもちながら悲しいほどに足が遅い(マンボパートナーの未来は、はたして)かもしれない! この瞬間、生まれる前に期待された傾向はすでにある形質に収束している。その形質を見極めようとすれば、血統はあるいは推測の手助けになるとしても、しかし理由にはなりえない。血統と形質の因果関係を証明することは不可能だからだ。全体の傾向は、そこから抽出された一例をかならずしも説明しない――いや、説明する可能性はつねに存在するが、それが100%であるかのごとき語りこそが、血統と馬券を結びつけようとすることの陥穽なのである。たとえばダイヤモンドS、阪神大賞典を連勝して春の天皇賞に臨むタイキシャトル産駒がいたとして、まさに「短距離が得意な」タイキシャトル産駒であるという理由のみで切ることの愚かさを知るべきだ。そんな人間はいないと一笑に付されるかもしれないが、しかし類似の事象(「血統で馬券がとれる」とは、まさにそういうことである)はたしかに散見される。現実は例のようにラディカルにできていないから、その愚かさが見えにくくなっているだけだ。
「血統で馬券をとれる」と信じているひとは、血統によって判断できる「ありうる」と、実際に1頭の特徴として現出した「ある」を無邪気に結びつけている。そうやって確率的な傾向でしかないものを100%の現実として認識するから、それが乖離していくばくかの現金を失ったときに傾向のすべてが否定されたような気がして「血統論は不要だ!」と叫んでしまう。だが「プレストウコウの菊花賞制覇」は、母系を無視してもなお、たんに「おおむね短いところが得意なグスタフも長距離を走れる仔を出すことがある」ということを意味するにすぎないと認識せよ。偏差値50から大きく離れる個体の存在がその50じたいを脅かさないように、過去から予測される血統の傾向から離れた1頭のサラブレッドによって血統論が無意味化することはない。「短距離血統」とは、まさにこれから生まれてきうる競走馬の謂いとしてのみ機能する。「サラブレッドは血で走る」、たしかに美しいことばかもしれないが、レトリックを真に受けるのはやめにしないか。彼らはまぎれもなくその肉体で、4本の脚で走るのだ。
(*1)そもそもそれはダビスタの設定じゃねえかという話もある。
(*2)こういうのを、「講釈師、見てきたような……」という。まあ「嘘をいい」ではないけれど、わたしはまだ生まれてさえいない。
(*3)全兄弟がどうとか、そういう話をしているわけではないので注意。たとえ全兄弟がいても、「いま」想定している競走馬が生まれていないことにかわりはない。
(*4)とはいえ真に「統計的」に扱えないところに血統論の非科学性があろう。