as red flag - reviews about game

under chequered flag

DEC.8.2007

ルールはスタンド・アローンに


 わたしは総体的に見ればあまりゲームが得意ではない。まさか最初のクリボーにやられるほど酷くはないが、少なくとも他人を感心させるだけの腕前を持っていないのはたしかで、『スーパーマリオブラザーズ』は3-1で無限upしてからでないとクリアできなかったし、『高橋名人の冒険島』はそうそうに諦めている。『魔界村』なんてどこまで行ったことやら。『ゼビウス』は……ファミコン版をやったときにあのいまさら説明するまでもない敵機の有機的な動きに感動した記憶はあるけれども、プレイとなるとどうにもおぼつかない。最後にやった2Dシューティングはたぶん『R-TYPE3』のはずで、かなり奮闘はしたのだが針の穴を通すようなコントロールを要求されて泣きそうだった。ゲームが世界のすべてだった子供のころでさえそうなのだから、自由な時間を失い、指先の錆びついたいまとなっては触る気も起きない……いやじつは淡い期待とともにWiiのバーチャルコンソールで『マリオ』を入手してみたが、やはり思い出にしておくべきだったと思う(*1)
 反射神経が要求されるアクションやシューティングだけでなく、シミュレーションやRPGについても自分が「正しく」プレイしていたとは思えない。負けず嫌いゆえに『ダービースタリオン』は死ぬほどやって、仲間内の「ブリーダーズカップ」大会では連勝を続けたけれども、それとて仲間内では、であって本当に上手い人から見ればはるかに低いレベルだったろう。現代のRPGはそもそもうまい下手の区別のつけ方がわからない。だいたいわたしは根気があるほうではないから、長くかかるゲームをやろうという気が、とくに最近はおきないのであった(しかしこうしてみると自分がゲーム好きであることが不思議になってくる)。
 そもそも「ゲームが上手い(そのゲームで強い)」とはなんなのか。それを考えるには「ゲームとはなにか」ということまで思考を進める必要があるだろう。ここでゲームの条件について大上段に構える気はないけれども、それでもそれについてひとつ言えるのは、基本的に「ルールを内蔵している」ということで、この思想はあらゆるゲームに当てはまる。たとえば将棋には将棋独自のルールがあって、そして(ここが大事なところだが)そのルールやそこでの強さは将棋の外の世界ではまったく通用せず、逆に外の世界のルールや強さは将棋盤の上では通用しない。いかに森内俊之がその肩書を誇ろうとも将棋会館の外で喧嘩には勝てない(*2)し、どれほど物理的に自由に駒を動かせようと、さらには懐に小刀を忍ばせて対局相手を威圧しようと、将棋に敬意を払う以上歩兵を手にすれば1段前に進める以外のことはできないのである。ゲームとは閉じた世界の中で勝敗を競うものなのだ。
 それはコンピュータゲームでも変わらない。『スーパーマリオブラザーズ』でマリオが「横から敵に当たると死ぬ」「敵を踏むと倒せる」「穴に落ちたら死ぬ」「一定回数死んだら(=ゲームオーバーになったら)すべてがリセットされて最初から始めなければならない」というのはすべてこのゲームに内在するルールだ。ノコノコにやられたときに「殴ればいいじゃねえか」と画面に向かって叫んでもまったくの無意味であり、また大ジャンプの着地でマリオの足が折れなかったことにいちいち感謝する必要もない。われわれの世界が物理法則などに支配されているように、マリオにも従うべきルールがあるというだけのことだ(ゲームを作るとは世界を創ることでもある)。プレイヤーはそのルールに則ることを受け入れてはじめてプレイすることを許される。
 もちろんあらゆるコンピュータゲームが現実と断絶しているわけではない。スポーツゲームのような「現実にある競技」をコンピュータに落とし込んだゲームはどうだろう。しかしこれは前回書いたとおりで、「野球ゲーム」は「野球」ではないし、「サッカーゲーム」もまたしかり。出力された結果観察される事象こそ似通っているが、そのために必要な入力は完全に異質である。「スポーツゲーム」と「スポーツ」は競技規則を共有するだけであって、それ以外に従わなければならないもっと根源的なルール(というか運動の法則)はまるで別物だ――右足を振り抜くことでシュートするか、□ボタンを押すことでシュートするか(*3)
 あらゆるゲームの目的は勝利を目指すことだが、それぞれのゲームはほかのゲームとは独立に「勝利の目指し方」をルールのかたちで規定している。だからあるゲームが得意というのは思考や運動がそのゲームだけに最適化されている状態であり、最適化までに要する時間が短く、また真に最適な動きにできるだけ近い操作をおこなえる人ほど「ゲームが上手い」ということになる。さらにそのように動かせるゲームの本数が多ければ最高だ。
 書いたようにわたしはその最適化があまり得意でなく、プレイにどうしても非合理的な部分が入りこむ。有り体にいって「下手」なのだけれど、しかしもう20年もゲームを続けている身としてかんたんにそれを認めるのも悔しいので、平均よりやれるゲームもある、ということは言っておきたい。たとえばレース、それもどちらかといえば『グランツーリスモ』(以下『GT』)のようなリアル指向のレースゲームや、『クイズマジックアカデミー』(以下『QMA』)なんかはわりと得意だ。会社員ともなるとなかなか時間がとれないので『QMA』をやる機会も限られてくるものの、プレイすればそれなりの成績を収めることができる。「全国オンライントーナメント」では25%以上の割合で決勝戦に残っているはず(ただし「アニメ&ゲーム」「芸能」が立て続けに来ると希望が失われる)だし、決勝に残ればこれまた25%以上の割合で優勝できているはずだ(*4)
『GT』は『GT』で、入手したクルマをできるだけチューンアップしてとにかくベストラップを求める、というようなストイックなプレイはあまりしなくなったけれども、適度なチューンでセッティングを煮詰めて綺麗なラインで走ることを心がけながらずっと楽しんでいる。シリーズが重ねられるたびにアナウンスされた「敵車のAIが強化されて無茶な動きはしなくなった」という情報を信じてインに飛びこみクリッピングポイントで幅寄せされながら「どこが」と呟きつつ、それでもいかに敵車と性能を揃えて美しくパスするかということに血道をあげつづけた。特にパワーで劣るクルマの足をがっちり固めてコーナリングで勝負しながら一瞬の隙を狙ってオーバーテイクするのはいかにも楽しく、カメラワークの美しいリプレイを見ながら部屋でひとりにやにやしていたものである。
 つまりおれにだってできるゲームはあるんだ……といいたいところだが、ここまでの話にはちょっとしたごまかしがある。読み進めてきた人にはとうにお分かりのとおり、わたしはこれらのタイトルがルールを内蔵していない、ゆえに――ゲームではないとまでは言わないまでも――独自のゲーム性を持ったゲームとして成立していないことから意図的に目を背けているのだ。
 レースゲームが現実と直結しうることは前回書いたが、『GT』はその傾向がもっとも顕著なタイトルのひとつである。『ラリーX』では煙幕で後続車を妨害することによって、あるいは『スーパーマリオカート』では甲羅をライバルにぶつけることによって、まだ内部的独自性を維持することができていたけれども、リアルを標榜すればするほどそういう「非現実」は導入できなくなっていき、外部との深い接続を求めることになる。レースゲームは現実と切断されていないから、現実性を追求すればするほど外部との区別がつかなくなってくる=ゲーム性が薄れていくのだ。だから『GT』が上手いことは必ずしもゲーマーとして優れていることを意味しない。
『QMA』はどうか。この人気アーケードゲームはあらためて言うまでもなくクイズを主題としているわけだが、この「クイズ」のルールは『QMA』のなかで構築されていない。ゲームの外側で手に入れた知識なりを、ゲームでしか通用しないわけではないインターフェイスを介して利用することによって正答を導く(その結果の優勝を目指す)わけだから、このゲームが求めているのは徹底的な外部性である。要するに、どれだけ『QMA』を繰り返しプレイしても『QMA』で勝つことの役には立たない、ということだ。他人のプレイに対して「そんだけ上手いんなら本物やれよ」と言いたくなる(=外部との近似性が見られる)『ドラムマニア』でさえ、投入した100円玉の数だけ上達するだろう。『QMA』にはそれがない。『らき☆すた』でかがみがこなたにテスト勉強を『QMA』(と名指しされているわけではないが話のタイトルが「魔法学士院」だからまちがいあるまい)のためだと考えるようアドバイスする場面がある(*5)が、「勝ちたかったら練習せずにべつの勉強をしたほうがいい」という不思議な言説が成り立つ点で、『QMA』は特殊なのである。
 とはいえ外部にルールの根拠を求めればすぐにゲーム性が薄まるわけではない。スポーツゲームはまさに競技規則を外部から導入しているし、そのほかにもたとえば『ことばのパズル もじぴったん』の名前をあげることができる。これは製作者が定めた定義ではなくプレイヤーがゲームとは無関係に知識として持っている「日本語」をパズルに利用しているわけだが、しかしパズルとして成立させるための内部ルールというものは存在する(その意味で意外にも『もじぴったん』とスポーツゲームは近しい関係にある)。これらは内と外をうまくミックスさせることで、ゲームとしての体裁を整えているわけだ。だが『QMA』はそういう部分的な内部性さえ持っていない。このタイトルはあくまで「クイズ」にコンピュータゲーム的な装飾を施したものであり、その装飾によってゲームと名乗ることを許されているところがある(*6)。これは『がんばる私の家計ダイアリー』(おそらくDSのソフトであるという理由でヨドバシ吉祥寺のゲームフロアで売られているけれども、ゲームと考える人はいまい)と大差ない。『家計ダイアリー』を使いこなせることがゲームが上手いことと同義にならないのとおなじく、『QMA』で勝てることは優秀なゲーマーであることを証明しないのである。
 結局『QMA』にしても『GT』にしても、システムの外側で(が)通用しすぎるのだ。その汎用性じたいが悪いわけではない。しかしゲームというものがそれぞれに唯一のルールを構築することによってアイデンティティを保つものならば、過度な外部との連結はマイナスに作用してしまう。これらのゲームはゲームとしてはあまりに融通が利きすぎた。それだったらわれわれはもっとゲームらしいゲームを知っている。ほかに何の応用もできない、実生活にはこれっぽちも役に立たない、それを動かすだけで世界が完結する多くのタイトルだ。そしてわたしは残念ながらそういうゲームを美しくプレイできなかった。
 だから、こう結論することには非常に忸怩たるものがあるけれども、しかし総論としてやはり言わざるをえない。わたしはゲームがたいして上手くないのだ。


(*1)Wiiのクラシックコントローラーは微妙に反応速度が遅い気がするのだが、ネットで検索してもそのような感想を持っている人がいないところを見ると鈍いのはコントローラーではなくプレイヤーということなのだろう。orz
(*2)この少し石井一久(埼玉西武ライオンズ)に似た顔の永世名人資格保持者の腕っぷしについては何も知らないけれども。
(*3)もちろん現実の「野球」や「サッカー」はそれら自身がゲームだから、外部とは断絶したルールをもっている。野球場の外でバットを振り回したら犯罪だし、そのほうが楽だからといってサッカーボールを試合中に手で持ったら反則だ。
(*4)「全国オンライントーナメント」では、16人が予選に参加し、4人の決勝進出者を決定する。その4人で優勝を争うから、ともに1/4以上の割合で勝ち抜くことができているなら「優秀」と言える。ただし階級が上がれば周囲のレベルも上がることに注意する必要はあるだろう。
(*5)美水かがみ『らき☆すた』(角川書店)単行本3巻、p.94。
(*6)オンラインで瞬時に全国のプレイヤーと対戦できるとか、さまざまな解答方式のクイズがあるとか、キャラクターを自分の好みにカスタマイズできるとか、コンピュータに向いた工夫があるのは事実だから、それをもってコンピュータゲームとして成立しうるという論点もあろう。しかしそれらの工夫は『QMA』を特徴づけるものではあってもその世界を基礎づける法則ではない。「特徴」はゲームを規定せず、ただ飾るのみである。


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