DEC.31.2007
無限の理想を無数のリソースで叶えようとすると、
すべてのリソースを使いきってなお無限の理想が残る
「ATBがもたらしたもの」でアクティブタイムバトル(以下ATB)について言わずもがなのことをわざわざ書いたのは、このシステムを発明した伊藤裕之という人物の偉大さについて触れたかったからだった。ATBの発明のみならず、ナンバリングタイトルや『FFタクティクス』における各システムの構築――ジョブやアビリティに魔石、ジャンクションなど、多くは彼が作り上げたものだ――も含め、彼が『FF』シリーズにおいて果たしてきた貢献は計り知れない。どちらかといえばシステム屋としての側面が強調されるクリエイターではあるものの、宮本茂や遠藤雅伸などと並んでまちがいなくゲーム史に名を残すべき人物である。
その伊藤が『電撃プレイステーション』401号のインタビューに際して『FF9』のシステムをいつか作りなおしたい趣旨の話をしていて、それを読んだときに彼ほどのクリエイターでも理想を追いかけるという罠に陥るのだなという感想を抱いたことが、そもそも最近のエントリの動機だったりするのであった。
ここ数年、ゲーム業界ではリメイクブームが続いている。DS版『ドラゴンクエスト4』が100万本を突破したことといい、『FF4』の注目のされ方といい、その勢いはいまだおとろえることを知らないようだ。『FF』シリーズなど「何度めだ」といいたくなるような連発ぶりだし、商魂も逞しすぎれば客離れを起こすといった類の批判はじゅうぶんに正当であると思うものの、とはいえわたしはこういうリメイクをそれほど否定的には捉えていない。過去の名作を失わずに現在にも持てる、というのはハードの進化によっていやおうなくソフトをも捨てざるをえないゲームの世界ではやはり貴重なことであり、リメイクによって新しい世代が過去のタイトルを知り、いまプレイしているゲームがどのような歴史に基礎づけられているかを多少でも理解しうると期待できるからだ。それはゲームを文化として発展させていきたいなら大切なことである。ただそのとき、伊藤のような態度までをも肯定できるかというと、やはり難しい。
伊藤がインタビューで述べた若干の不満と同じものを指しているのかどうかはわからないが、たしかに『FF9』のATB(を含めた戦闘の構築)は出来が悪かった。ソフト側の要求にハードのスペックが追いついておらず、派手なエフェクトのときにはかならずといっていいほど処理待ちが起こったし、しかもその最中やエフェクト中にも時間が進行する仕様だったから、とくにボス戦では「敵の長いエフェクトの攻撃→味方全員のATBゲージが溜まる→入力→全員待機(このあいだに敵のATBゲージも進行している。味方は入力後のアクションを待っているのでゲージは進行しない)→味方行動→間髪入れず敵行動→味方待機」の悪循環が繰り返されたものだ。ヌルゲーマーのわたしはコンフィグでATBを「ウエイト」に設定し、敵がアクションを起こしたらすぐにウィンドウを開いて時間を止める」くらいしかこのループを抜け出す方法を思いつかなかったのだが、最後のクジャ戦でうっかり漫然とボタンを連打してしまい、通常攻撃&カウンターの「フレアスター」連発を食らって全滅したこともある。この仕様によって結果的にはプレイヤー側がATBゲージ(=時間の流れ)を管理するという要素が生まれたといえなくもないとはいえ、しかしそれはATBシステムの本質からいって完全に不自然なことであり、不出来どころか失敗とさえいえる。
伊藤の『FF9』に対する再製作欲求が、そういう完成度の低い時間を作ってしまったことへの悔恨からきているものなのか、それ以外、アビリティやトランスなどの部分も含めての再構築を指すものなのかはかりかねるところはある。クリエイターがより完璧なものを作りたいという欲求を抱くのはわかるし、できればやりなおしたい部分があるのも当然だろう。しかしたとえそういう心情を理解したとしてもなお、「システムをもう一度作りなおしたい」という趣旨のことを個人のインタビューであっさり話してしまうというのは読者・プレイヤーとしてあまり感心できないわけである。ハードの限界の見極めによるアイデアの取捨選択は不可避的な決断であり、作品はそういう決断もふくめてグロスで完成品として見なされる。たとえ不満が残ったとしてもそれはそれとして認めて次作に活かすのが発展性というものだ。新しいハードというソフトの完成時に存在しなかったものでリメイクをつくってそれに不満の解決を委ねるのは因果関係をひっくり返すようで褒められた話ではないし、オリジナル製作当時の決断を蔑ろにする行為でもある。遊びやすくなるならいいじゃないかといわれるかもしれないが、ゲームは工業製品ではないことを忘れてはいけない。
リメイクの話となると追加ムービーなどの演出のほうに論点が傾きがちで、そういう要素をもってリメイクを拒否するゲーム好きもいる。だがたとえそれが過剰なものだったとしても、実のところ演出強化は心配するほどに作品の質を左右しない。演出はしょせん演出であって、後付けの装飾が大きな力を持つことはないのだ。だからRPGの何割かが演出に占められている現状がある以上、リメイクに際してそれを充実させることくらい構わないという考えることもできる。だがシステムを再構築したり、難易度・バランスを安易に変更するのはまた別の話だ。作り手にとっての作品が捨てたアイデアを含めてのものであるのと同様に、プレイヤーにとっての名作は理不尽な部分も含めて名作だったのであり、そこをフレンドリーにすることはむしろ作品の濃度を薄めることになろう。出現率が上がり、もはや逃げもしなくなったメタルキングを倒したところで、どこにカタルシスがあるというのか。リメイクよりもWiiのバーチャルコンソールのほうがよいと思えてしまうのは、なにも値段が安いからだけではない。
まちがいなく優秀なクリエイターであるはずの伊藤が、しかし無自覚にも「『FF9』のシステムを作りなおしたい」といってしまうとき、そこには妥協の責任を旧ハードに分担させ、理想の実現を新ハードに頼っているという意味において二重の甘えがある。しかも使えるリソースが増大すればその甘えが解消されるというものでもない。井上陽水が『限りない欲望』と歌っているように、リソースの増大はつねに理想の膨張をともない、理想の大きさはつねにリソースを上回る。どれだけ技術が進歩しても、不満がなくなる日はやってこないのだ。ゆえに新しいハードでシステムを直してリメイクを作ろうとすればさらなるアイデアを呼んでしまい、また妥協を強いられることになろう。そうなればリメイクとオリジナルのちがいは妥協の程度でしかないのだから、システムの再構築など最初から無意味である。そして妥協がそこに残っている以上、この構造はループを含む。もしクリエイターがこういうループを気付かぬうちに慣れてしまうと、未来の新作において「リメイクで直せる」という思考に侵食されてアイデアを吟味できなくなるかもしれない。そうやって作られたゲームは、まちがいなくリメイクを作る価値がないほどの駄作になるだろう。それではあまりに不幸というものだ。
結局「できたかもしれない完璧な作品」など見果てぬ夢だ、作りあげられたもの以上に完璧な作品など文字どおり存在しない。あらためていおう。不採用の決断も、また尊重すべきひとつの決断である。理想のすべてが叶うことは決してないことを忘れたとき、名作は生まれなくなるのだ。