APR.18.2008
いまいちど『有野の挑戦状』につき
2007年11月に発売された『ゲームセンターCX 有野の挑戦状』(以下『CX』)はそこそこ売れ、10万本には到達したようだ。それまでにリリースされていたDVDの売れ行きも好調だったからある程度狙っていたはずとはいえ、サードパーティーの新作が思ったほど伸びない印象があるニンテンドーDSにあって、この本数はじゅうぶんに成功の部類にはいるだろう。くるりの『赤い電車』が京浜急行のCM曲になったときにも思ったが、こういう、各メディアの嗜好ベクトルがおなじほうを向くメディアミックスは好ましい。本放送こそ挑戦ソフトの選定やADのキャラの立てかたなど含めてさすがに限界を迎えつつあるかなという感じを受けるものの、まあ4年もやっていれば無理もない。あとどれくらい続くのかわからないが、ほのぼの進めつつも最後に激辛のゲームをやって大団円を迎えれば晩節を汚すこともなく終われるのではなかろうか。1シーズン丸ごと1本の極悪タイトル挑戦に費やすほどの冒険ができれば(神懸かり的な編集力が必要というハードルはさておくとして)毀誉褒貶入り交じりつつの伝説を作れるだろうが、さすがに高望みではある。
ということで、個人的にクリアしたことだし、去年いちど触れている『CX』についてもういちど整理したいと思う次第である。
『CX』がメタゲームであることは「『ゲームセンターCX』が獲得した視点」で書いた(そもそもパッケージでも「ゲーム in ゲーム」と銘打たれている)が、メタの成立にはいうまでもなくベタが必要である。『CX』では本放送で有野晋哉が挑戦してきたような昔のソフトをモチーフにしたゲームがベタの機能を有しており、どれほど興味深いメタ構造を組みこんでいようとこの出来が悪ければメタごと台無しになってしまうわけだ。挑戦的な試みに対する評価とは別の部分で『CX』を単純にプレイしたいと思ったとき、やはりベタへの言及は避けられない。ではその部分を構成するレトロ風ゲーム群は、どのように捉えられるべきだろうか。
『CX』に収録されている架空のタイトルは、「からくり忍者ハグルマン」にしろ「スタープリンス」にしろ、いかにもファミコンであったようなゲームだから、たしかに懐かしい感じはする。しかしいうまでもなくそれは「感じ」でしかない。当然ながらこれらがもたらす懐かしさなどは完全に欺瞞であって、ゲーム側だけでなく、プレイヤーのわれわれもまた懐かしい「振り」をして幻想の共有につきあっているに過ぎない。『CX』をプレイしてほんとうに懐かしいと感じてしまうひとがいたら、それは昔のことを忘れてしまったか、そもそもさほどゲームをしていなかったか、あるいは訪れたこともない遠野あたりの写真と「懐かしい日本の原風景」というキャプションを見せられてころっと納得してしまうピュアでナイーブな心をもっているかのいずれかだ(懐かしさの捏造!)(*1)。実際のところ、これらのゲーム内ゲームはべつに懐かしくもなんともない。わたしは意識的に「懐かしい「感じ」」と書いたが、たいていのひとも『CX』に「懐かしい」という評価を与えるとき、意図せず「どこか」とか「なにか」と言ってしまうはずだ。そのあいまいな修飾はまさにこのゲームが質的になにも懐かしくない証拠となっている。
『CX』のゲーム内ゲームはきわめてスムーズに設計されている。シューティング2タイトルの自機や敵の動きは練られているし、「ガディアクエスト」はテキストの送りひとつとってもストレスを感じさせない。ユーザビリティを真剣に考え、丁寧なテストプレイを繰り返しおこなってきただろうことを想像させる出来映えだ。
ただ、快適になればなるほど昔のゲームから離れていくというのもまた事実なのである。ファミコンから20年以上が経ってわれわれは、それこそ懐かしさゆえにレトロゲーム、レトロゲームとつい賞賛してしまうが、しかし昔のゲームってそんなによかっただろうか。初期の家庭用ゲームの多くはスムーズで快適なプレイや理に適った難易度とは縁遠かったではないか。よいゲームはもちろんたくさんあったが、ひどいゲームもそれ以上に多かった。『マリオ』など例外で、だから稀有なタイトルなのだ。アクションやシューティングをやれば自分も敵も動きは固く、直感的に動かないし、難しいと理不尽がほぼ同義だったゲームも多い。RPGだって『ドラゴンクエスト』の「かいだん」コマンドや『3』で扉を開ける際の「どうぐ→とうぞくのかぎ→つかう」という煩雑な操作は、いまならそれだけで評価を下げる要素になりそうだ(*2)。エンカウント率の高さも、現代のRPGに慣れてしまうと煩わしく感じるだろう。いやなにより『2』の「ふっかつのじゅもん」の長さといったら! 面倒から逃れたくてゲームをやるのに、ゲームでやらなければならないことも面倒だった。われわれはそれを意識せぬまま「無理に」プレイしていたと思う。
有野は本放送で『忍者龍剣伝』に挑戦した際、ステージ5-2開始直後に進行方向と逆に移動、あっさり落下死して「柵つくっとけよな」とぼやいている(DVD-Box3、vol.5収録)。まさにそういうことなのだ。そこに柵がないのは昔のゲームが持っていた不合理さである。あの瞬間、(やはりおなじように死ねる)理不尽な死の塊のような『カラテカ』を思い出したのはわたしだけではないだろう。難易度はたしかに高いが、難しさとは別のところで殺されている気がするあの感じ。われわれがゲームの思い出を語るとき、笑いながら『カラテカ』について話題にしてしまうのはいびつなインパクトがあったからだ。『CX』はそういう不合理さや理不尽さを持っていない。その意味でこのゲームに懐かしさを求めるのは適当でないわけである。
われわれがファミコンの時代をときに「越えられない(かった)壁」として想起するのならば、スムーズなプレイをもたらす『CX』はそういう思い出を残すことなく徐々に姿を消し、やがて中古ショップで3ケタの値段で売られることになるだろう。どれだけ外面を粗野に取り繕っても、内側から滲み出る洗練は隠せない。あの苦笑とともに蘇ってくる印象を、このゲームはけっして持ちえない。だがそれはつまり、『CX』がよいゲームだということである(たとえじっくり遊んでみれば本質を理解できるといっても、『カラテカ』や『スペランカー』が初見でクソゲーと認識されがちだった事実も動かしようがない)。たしかにこのゲームは懐かしくもなんともないが、それでもプレイヤーがわかったうえで懐かしがるふりをするのはべつに悪いことではない。いってしまえば「全力で釣られ」ればいいのだ。そうすればこのゲームは、過去を持ちだすまでもなく、いま楽しい。
(*1)で、こういうひとは『となりのトトロ』を見ても懐かしいというのである。
(*2)しかしもちろん、これらの操作が当時においてはシニフィアンとシニフィエを結ぶために欠かざるものであったというブルボン小林の指摘を思い出す必要がある(『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』、太田出版、pp.262-264)。