MAY.31.2008
ゲームは善意で敷きつめられた道の先にどちらの世界を見るか
『無限回廊』は、瞬間的に画面を切り取ってしまえば一筆書きのような線画でのみ構成されるきわめてシンプルなゲームである。音楽も単調で平坦な管弦楽がひたすらに流れるのみで、現代のゲームにあって派手な演出や微細なグラフィックに過剰なコストをかけることを拒否する決意が画面から滲みでており、パッケージングを含めて異彩を放っているソフトといってまちがいない。つまりこのソフトは制作者の動機にかかわらずいかにも現代ゲームへのアンチテーゼをプレイヤーに感じさせるような作りになっているのであり、演出がゲームの中心に居座ることに対して倦んでいるひとであればそこにいくばくかの心地よさを受け取ることが可能となる。このソフトで遊ぶことによって、ゲームにおける演出とははたしてどのようなものなのかあらためて考えさせられてしまう。今回のエントリは『無限回廊』と直接関係あるものではないが、起こすにあたってのひとつの動機になっているという意味でこのゲームで遊んだことは個人的に有意義だったのだろう。しかしとりあえず本題だ。ゲームは演出という要素によってたしかに多くの利益を得た。美しい映像や迫力ある音声はゲーマーの心を躍らせ、またゲームに関心の薄い人間を惹きつけて、ついでに絵描きと声優の仕事機会を増やしもしただろう。しかしそのいっぽうで、それが行きすぎた結果ゲームをつまらなくしているという指摘もしばしば起こる。わたしもたしかに過剰な演出の弊害について一定の可能性を感じるものであるが、もしこの要素がゲームを殺すとしたら、それはどういう部分でなのだろう。
ほんとうにおもしろいゲームは極度に記号化されていてもおもしろいというような趣旨のことをいったのは横井軍平だったか、あるいは高橋名人にもPodcast番組『16SHOT RADIO』(終了)内で同様の発言があったように記憶しているが、それがどのような意図で発せられたにせよ、現代のゲーム批判についてもじゅうぶんに援用できる言であることはまちがいない。美しい見た目はたしかにあるに越したことはないように思えるが、それに頼りすぎてしまうとゲームと名乗っているだけの別のものになってしまう可能性がある。その最たるものがつまりエロゲーなのであって、べつにゲームである必要はないわけである(*1)。そこまで極端な話でなくとも、たとえばプレイステーション2の『涼宮ハルヒの戸惑』なども、「ゲームとして」いいソフトであるにちがいないのだが、同時に「涼宮ハルヒ」とか「朝比奈みくる」とか「長門有希」とか、もちろん「キョン」などといった文脈からどうあっても逃れがたいために、ゲーム性だけを評価することが困難になってしまう(もちろん、『戸惑』がそれらの文脈を有効に活用している以上そこを不可分にはできない、という理屈は受け容れたうえで、それでもなお)。とはいえ話はそれほど単純でもないだろう。極度に記号化された状態、つまり長方形のフィールド内で単純な円形や三角形や直線などのみで描かれたキャラクター――それを「キャラクター」と呼ぶのはずいぶんな皮肉にしても――を動かすとして、それでもきちんとプレイできるものこそがゲームとして望ましいという考えは、たんに過剰ともいえるほど美麗なグラフィックや現実と混同しそうになるサウンドに対する忌避の感情を表明するだけものではない。そこには、「表記とそれが意味するところの対応関係によけいな推測を挟めない状態でのプレイが可能であるならばそのソフトは(質はともかく)ゲームとしての条件を満たしている」という語り手の信念がたしかにある。
精緻に描かれた絵はプレイヤーに予断をもたらすことがある。たとえばいま画面に銃を構える美少女が描かれており(いや、美少女である必要は微塵もないのだが、まあそういうのが求められている現状のようなものがあるとして、それを想定してみたときに)、プレイヤーがその美少女を操作する対象であると認識したうえで、前方からいかにも悪意に充ちているように見える異形な存在が迫ってくるのなら、われわれは「彼女に発砲させて敵を撃つ」というアクションに必然性を与えることになる(*2)。もちろんそのアクションがゲーム的に正しいことはほぼまちがいないのだが、問題は、ゲーム的な必然としてそう断言するわけではないことにあるだろう。つまり四半世紀も前に薬師丸ひろ子があきらかにしたように、そもそも「美少女」は「銃」を「撃つ」ものなのだ……というのはちょっと与太が過ぎるから「美少女」については除外するにしても、やはり「銃」というツールを目にしたとき、ゲームとは無関係にわれわれはそれが目標を狙撃する武器であるという対応関係を反射的に意識しないわけにいかないのである。
だがゲームの世界が四角く、またそのなかでうごめいているなにかが丸や三角や直線でしかなかったとすれば、われわれはそこでそれをどうすればよいのか知ることができないはずだ。もしかしたら△を×に当たらないように逃がしつつ○に辿りつかせる必要があるのかもしれないし、ぎゃくにすべての×に△をぶつけてから○に接触する必要があるのかもしれない。もちろん×をぜんぶ消すことが目的で、○はその手助けとしておいてあるだけの可能性もある。あるいはキーを押すと△から・が発射されることがわかったとして、それで×を撃つのかそれとも×に当てないようにフィールドの端に届かせるべきなのか、そういったことも経験から判断することは不可能だ。ひるがえってそこに描かれているのが単純な図形ではなくきちんと意図を与えられているように感じられる「絵」であったなら、そのような迷いはあまり生じそうにない。いかにも悪そうな姿のキャラクターがいれば敵と判断して避けてとおるだろうし、$マークのついた袋には積極的に近づいていくだろう。扉はきっと中継地点ないしは最終目的地である。風船であれば撃って破裂させようと思い、レンガ塀の先に異形のものを見れば隙間から狙撃しようとするにちがいない。
単純な図形にあっては、そこに表記と内容の対応関係がわれわれのなかで前提されていないためにそれがなにかの記号であるだろうことは推測できてもどういう作用を指し示しているのかがすぐにわからない。いったいこれらの○は、△は、×はなにを「意味する」のか? われわれはみょうにシンプルな画面を前にし、はたと立ち止まってしまうことだろう。そこでの逡巡はいかにも無駄な作業に感じられるが、しかしもしかしたらゲームにとって必要なのかもしれないのだ。つまりここで立ち止まること、そしてその後にひとつの理解を得てふたたび歩きはじめることは、けっきょくのところゲームをプレイするということの根源といえないだろうか。
じっさい、むかしはゲームをプレイするときに立ち止まる必要があった。△○×の話ではないが、たとえば最初期のコンピュータRPG『ローグ』をいま振り返ってみたとき、21世紀のゲームプレイヤーであるわれわれはその表示されている内容を瞬時に理解することができないわけである。画面には幾多のASCII文字、「A」「D」「H」などのアルファベットや「#」「+」「@」といった記号が描かれているが、それらによってどのような世界が構成されているのか、一見して判断するのはおよそ不可能だ。だがこのゲームを知っているひとならば、迷いなく「@」を適切に動かして「H」などを「倒し」にかかるだろう。彼(女)にとって「@」が自分を示し、各アルファベットが敵モンスターを示していることは考えるまでもないことだ。どういう理屈でそういう関係になっているのかは知らないが、とにかくそう「決まって」いる――ここはそういう世界である。必然性があるとは思えないが、必然的と思わなければならない「(表記と内容の)対応関係」がそこかしこに結ばれており、その対応関係を「知っている」(「知る」以外に理解する方法はない。合理的な推測で対応関係に辿りつくことは不可能である)ひとこそを「プレイヤー」と呼ぶ。彼(女)は恣意的に決定されたこの関係に身を委ねながら『ローグ』をプレイする。
あるいは、かつてのシューティングゲームで自機が弾丸なりレーザーなりを発射するときの「ピャ」とも「ピョ」とも「ピュン」ともいえないようなあのみょうに甲高い電子音を、われわれはたしかに発射音として認識していたのである。なぜならその音がつねに武器の発射とセットになって発せられていたからだ、と理解することはできるが、そこに構造的なポイントはある。「ヒョアンヒョアンヒョアンヒョアン」という気の抜けた連続的な電子音をゲームとかかわりをもったことのないひとに聞かせてもきっと気味悪がるだけだが、かつての『グラディウス』プレイヤーならなんの疑問もなくそれを「ミサイルの発射音」であると答えるはずだろう(そしてこの音に不快感を覚えたひとは隣でなぜか正解を出す人間を見てますます不気味に感じるわけだ)。これはつまり、山を指して「やま」ということで山が「やま」であることを了解し、その了解を必然的な前提として、なぜ山を「やま」というのかわからないままそれでも「やま」という音を発するわれわれの振る舞いとおなじである。もちろん日本語を解さない相手に「やま」といったところで話者の意図は伝わらない。プレイヤーが日本人なら、非プレイヤーは日本語に触れたことのない外国人というわけだ。無垢なままでは知りようもない恣意的な対応関係を、繰りかえし遊ぶことによってプレイヤーだけが必然化して了解している。いつかに紹介した、『ドラゴンクエスト』シリーズにおける「階段」についてのブルボン小林の有意義な指摘(『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』、太田出版、 pp.262-264)は、まさにそのことを示唆していたといえるだろう。あの申し訳程度に陰影のついた灰色の塊が果てなく繰りかえされる「かいだん」コマンドによって階段と了解されるようになり、その結果あまねくプレイヤーにとってそれが階段以外のなにものをも意味しなくなったとき「かいだん」コマンドは消える……。ここには意味不明な絵とその指示内容のあいだに結ばれる恣意的な対応関係が必然化されるまでのプロセスが提示されている。
ゲーム世界のなかで通用するシニフィアンとシニフィエの結合はわれわれが生きている世界とはまたべつのありかたで存在する。外部からその対応関係に合理的な必然性は見出せず、しかしそうでありながらその世界の内部では必然的だ。ゲームのなかでなら、われわれはたんなる△という図形を抜群の射程と精度を誇る最新鋭の兵器と見なすこともでき、またそう見なされるならそうあつかう必要がある。この場合なぜそうなっているのかはわからないまま、「そうであるから、そうである」というトートロジーを単純に受けいれるしかない。ここには果てしない対応関係だけが広がっていて、その関係に意味はない、というよりその関係こそを意味と呼んでいる。われわれは異邦の言語を学ぶがごとくそれをひとつずつ把握していくのであり、ゲームのプレイとは、そういう関係を知る(=新しく言語を勉強する)ことそのものだとさえいってもいいはずだ。だがそこに、きわめて精緻な「絵」が入りこんできたとしたら。われわれはその「絵」が指し示す「意味」から自由でいられない。そこに「銃」が描かれているかぎりどうしようもなく撃つものであって、斬りつけるものではありえなくなる。これはもはやゲームだけに特殊な関係ではなく、さればゲームもまた世間で流通する関係性の構造に組みこまれていくことになるだろう。ほんらいべつの宇宙を構築できるはずのゲームは、その価値のひとつを失いうる。
美しいグラフィックと臨場感あふれるサウンドによって、われわれはゲームについてまったく知識をもたなくてもその世界でなにが起こっているか理解できるようになっている。これはつまり言語においてきわめて高度な翻訳機が開発されたのとおなじことであり、冒頭書いたようにそのことによっておそらくゲームとは縁遠かったひともそこに参加しやすくなった。だが完全な翻訳を通してしまうと山-mountainという英語での関係をいっさい知りえなくなってしまって原文に対する意識を薄めてしまうように、「正しい」絵や音はゲーム独自の対応関係からプレイヤーを遠ざけて「ゲーム性」を覆い隠すのだ。つまり映像や音が精緻になればなるほど、プレイヤーはゲーム世界で「なにが起こっているのか」についてはかんたんに認識できるようになるが、それと反比例するかのようにそこで「なにをすべきなのか」を把握しにくくなってしまう。演出の強化は、宿命的にゲームから「ゲーム」である部分を切り離す(*3)。
われわれはたぶん、「現実と見まごう」といったことばが賞賛として成立するよう、迫力ある美しい映像と音にゲームの進化を見出して歓迎してきた。だとするならば、演出はつねに善意によって強化されてきたわけである。演出がゲームのエッセンスを隠蔽する欺瞞装置であるなら、すくなくとも、ゲームにかかわるほとんどのひとはいまもなおその隠蔽に対する無意識的なしかし積極的な荷担を善意でもって続けている、ということはいえてしまうのかもしれない。この善意が舗装する道がただちにゲームの死という地獄へ通じるとも思われないが、それによって生じるジレンマはたしかに現代のゲームを覆っている。
(*1)ところで「Fateは文学」などというネタ(なのかな?)もあるようだが、エロゲーを紙芝居とするならそれが形式的な文学性を帯びていることはまちがいないわけで(絵があって声が出るだけのことである)、まあこのゲームをプレイしていない以上うかつなことはいえないのだがしかしそういう観点からすれば「Fateは文学」といってみることにいささかのためらいもない。とはいえもちろん、『Fate』が文学であるかどうかと『Fate』が文学的に優れているかどうかは完全に独立したべつの問題である。
(*2)もっと具体的にいえば、レイジングハートを持った高町なのはを操作しているならば、とりあえずディバインバスター撃つものだと思うでしょ、という話である。
(*3)このエントリの議論が成立するなら「われわれは"B"ダッシュをしない」とは逆の結論を導けるのではないか、という指摘はたぶん正しいが、しかし考えることが楽しいのであって考えた結果が大事なのではないという意思は明確にしておきたい。