as red flag - reviews about game

under chequered flag

JAN.13.2008

われわれは"B"ダッシュをしない


 茨城県の荒川沖で起きた連続殺傷事件にからんだ話をしておこう。容疑者の男がゲーム、それも「人を殺すアクションゲーム」であるところの『NINJA GAIDEN Dragon Sword』を持っていたことからまたぞろテレビではゲームの悪影響がうんぬんという意見が出ているようで(http://www.j-cast.com/tv/2008/03/24018131.html)、まあそういうことを気軽に発言するのはなにかを悪者にすることで飯を食う人間の業みたいなものだからいいものの(いやそういうひとを好きかそうではないかと問われれば後者ではあるんだが)、ではわたしのように本棚にけっこうな数の思想書、哲学書、物理学の概論書、純文学と呼ばれるような小説、それなりの数のゲーム、マンガ、ロックのCD、クラシックのCD、わずかながらアニメのDVDが収まっている人間が無差別殺人を犯した暁にはどれのせいにしていただけるのでしょうかねといってみたくはある。べつに「スガ秀実とセックス・ピストルズの影響で革命に走りました」とかでもいいと思うけど、おそらくそういうことにはなるまい、と確証が持てるところにゲームの批判のされやすさをうかがうこともできるのだろう。
 伊集院光も「ファミ通」の連載でほんの少しだけ愚痴るように触れていた(vol.1009、p.182「悪い事件をきっかけに、世間でまたゲームバッシングが始まりそうな予感」)が、なにか事件が起きたときに原因を知りたいという欲求が社会のなかにあるのなら、ゲーマーが事件を起こしたときにゲームがスケープゴートにされるのはしかたない面もあるだろう。ただ、そうやって(おもに年長世代が)新しいメディアだけを批判のターゲットにするのは滑稽だし(100年前、小説は不良が読むものだったわけだが、といわれたときにどうするのか)、科学的因果関係が証明されていないなら、不当ですらある。もちろんそんなものは「調査によると、ほぼすべての犯罪者が日常的に水を飲んでいる」といった詭弁に近いものなのだからいわせておけばいいというのは正しいのだが、だからといって看過を決めこんでいるとそのうち自分が損を被る可能性(ゲーム市場の縮小によっておもしろいゲームが減るとか)を否定できないのも事実なので――なにぶん、声が大きいことは強いのである、そこに合理性がなくても――ゲーム好きとして牽強付会になりうることを承知しつつも、これまで残してきたエントリを踏まえつつ少しばかりゲームを擁護しておこうと思う。
 ゲームの世界は基本的に現実世界と断絶しているということはこれまでなんども書いてきたとおりだ。いいかげんしつこいと怒られそうだが、そういう前提に立つことはゲームについて考えるうえではやはり重要なことだと思われる。プレイヤーは、自分が操作するキャラクターをまさに操作しながら見ることで、画面のなかの人物なり動物なり機械なりがどれほど「非現実的に」振る舞っているかすぐに理解することができる。まちがってならないのは、その「非現実的」が「いま自分が生きている現実」と比較してありえないという意味にすぎないことであって、テレビ画面の前に座っている身にとっていかに荒唐無稽に見える振る舞いであっても、それは「ゲームの世界」にとってべつにおかしなことではないのである。たぶん、『ドラゴンクエスト』の世界では他人の家に勝手に上がりこんだあげくにタンスを物色しても犯罪にはならないのだ、ということを、われわれはまさに勇者にタンスを物色させることで知る――ゲームというメディアはそういう意識を強く喚起する性質をもっている。ゲームに対する批判として典型的なのは、「ゲームをや(りすぎ)ることで現実と虚構の区別がつかなくなる」という言だが、実際のところ逆であって、ほんらいゲームは自分が生きる世界とはちがうルールのもとに運動する世界があるという感覚を植えつけるように機能するものである。将棋に負けそうになったときに癇癪を起こして盤を引っ繰りかえしたあげくに相手を組み伏せても本質的な解決に到らないことはだれもがわかる理屈だが、コンピュータゲームにもその理屈は通用する。現実とゲームの世界はつながりをもっていない。それはゲームをきちんと観察してプレイすればかんたんに把握できることだ。
 あるいは、「いつでもリセットできるので生死を軽んじてしまう」といった批判でもそれはおなじことである。なるほどたしかにゲームは失敗すればリセットでもとの状態を取り戻すことができるし、また特定のゲームの世界でキャラクターはなんども死に、そのたびに復活できる。批判は、ゲームのそういうところそのものに向けられているだろう――「現実はそうではないのだから、よくない」と。だがその批判はやはり、現実世界の文脈でゲームを語っているだけで、ゲームそのものに対する言説としては無意味である。ゲームにまつわるそのような事実は、「ゲームの世界と現実世界では死の意味がちがうのである」「ゲーム世界はときに可逆的である」ということを示唆するにすぎない。ひとが生き返る/生き返らない、リセットできる/できない世界であるというのはたんなる相貌の相違であって、あきらかに善悪の問題ではないし、たとえよいか悪いかという議論であったとしても、生き返れるほうがそうでないよりいいという意見もじゅうぶんに説得力をもつから、現実のゲームに対する優位性を無条件で証明することにはならない。現実とちがうことは、それ単体ではゲームを批判する理由になりえないのである。
 ゲームを擁護したいと考える人間が上のような批判を展開する相手に対して苛立ちを覚えるのは、彼らがゲームをほとんどプレイしたことがないように感じられるからで、もちろんその感覚は根拠のない憶測であるのだが、「ゲームはどうしようもなくゲームでしかない」という観念をまったくといっていいほどもっていない彼らの言説を聞いていれば、そのように絡んでみたくもなる。彼らは(おそらく)プレイしていないから、およそ自明であるはずのゲームという世界と現実との無関係性に気づかず、表面的な残虐シーンなどといった表現とやらに惑わされて、それを悪いものとして叫んでしまう。彼らの問題は、すべての思考が「この世界」の論理によってなされていると思いこんでいることだ。いま自分が生きている世界をただひとつのものとして疑いもせず、基礎物理定数がちがう宇宙が自分の宇宙と並行してつねに存在しうる可能性を想定することもなく、ゲームもまたとうぜんのようにこの世界のなかに組みこまれている現実装置であると信じきっているから、現実とゲームをおなじ俎上に載せて恥じないのである。だがそのような世界への態度はやはり無邪気にすぎよう。長く(「健全に」ということばが必要だというなら、付け加えてもいい)ゲームで遊んできたプレイヤーにとって、テレビ画面の向こうで描かれる世界と現実の世界がちがう拡がりを持っているのはあきらかだ。それらはまぎれもなくそれぞれべつの宇宙であり、われわれはつねにこの宇宙/その宇宙を区別しなければならなかった。前にも書いたとおりそうしなければゲームを上手にプレイできないからであり、そもそもその区別をはっきり認識することがゲームを正しくプレイするための第一歩なのだ。批判者がそのことを理解していないのだとすれば、「ゲームで遊んでいると現実と虚構の区別がつかなくなるといっている人間のほうが現実と虚構をどう区別して認識するかを把握していない」という陳腐化された反論を、そうであってももちださざるをえないことになる。ゲームで遊ぶということは、コントローラというデバイスをつうじて宇宙を跳躍しようと試みることであり、そのときプレイヤーの目の前に現れるのは現実/ゲームを断絶しようとする遥かな溝にちがいない。それを飛び越えられるものだけが優秀なプレイヤーであることを宣言できるならば、その瞬間に生まれるのははっきりとした「虚構と現実のちがい」に対する意識なのである。そのような「ゲーム」が、いったい無関係な現実でなんの事件を引き起こせるというのだろうか。


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