NOV.17.2008
セーブすべきか、なされるべきか
『リトルビッグプラネット』をプレイしていて大いににとまどったことがひとつあって、それは「セーブができない」ということだった。正確にいえばもちろんゲームの状態を保存しない/できないわけではなく、完全なオートセーブになっていてプレイヤーが選択すべき「セーブ」、そしてそれとセットになる「ロード」のコマンドが存在しないだけなのだが、あたりまえのようにセーブするという作業を身につけている身にはどうも心許なく、ひさかたぶりに乗るAT車で左足の置き所をなくして落ち着かなくなるのと似たような感覚に襲われる(*1)。しかもこのゲームはセーブしているはずのときでも小さな表示しかでないうえに操作も受け付けているため、ほとんど気づかないあいだに保存が完了されるから、最初に電源を切ろうとしたときはひととおりボタンを押してコマンドがないことを確認し、説明書も読み返してからようやく、しかしそれでも不安を残しながらようやくコントローラのPSボタンを長押ししたのだった。翌日、再度起動したとききちんと直前の状態からはじめられたときはほっとして、あらためて時代が進んだことに感心もしたが、同時にそこではじめて「セーブする」という行為について考えることになったのである。これまで深く考えずにあたりまえのようにおこなっていたセーブだが、行為を失って――オートセーブはたしかにセーブを失っている。記録ではなく、記録するという行為において――はじめてその意義を捉えようとするというのは、ありがちとはいうものの、やはり皮肉な話にはちがいない。
そもそも「セーブ」とはなんなのだろう。それはまず、だれもが考えるように、字義どおりゲームのなかの定まった状態を保存・記録することである。われわれはゲームとは別の、ふだんは「現実の」といわれる世界で生存のための活動を行っていて、ゲームだけにすべてのリソースを注ぎこむことはできない(そうしてもいいが、まもなく死ぬ運命が待ちかまえているにちがいない)。プレイヤーはいつでもいつまでもプレイヤーでいられるわけではないからかならずゲームの中断を要し、その前後を接続するのがセーブという行為ということになる。ひとまずは簡単な話だ。
もちろん単純に捉えればこれはたんなる記録であって、それ以上に積極的な意義はないととりあえずはいうべきだろう。おのおののプレイヤーがゲームをできる時間は限られており、1回のプレイでクリアしきれないゲーム(現在はほとんどがそうだ)の場合セーブができないと電源を入れ直すたびにおなじところを延々と繰り返さなければならなくなる。初期のアクションゲームにステージスキップ要素が多かったのはセーブが不可能なことの裏返しでもあるだろうが、ゲームが拡大する以上、記録と呼び出しは不可欠なものにならざるをえない。べつに話をゲームやデジタルデータにかぎらずとも作業を中断するときにはその状態を保持しておかないといつまで経っても終わらないわけで、セーブとは必要性に呼応して搭載された必然的で最低限の機能と捉えるのが正しいにちがいない。
そういう意味で、セーブというのは技術的な発想であり、そこに語るべき構造などはないとふつう思われている。だがさまざまなゲームにおいてそのありかたは一様でないし、作る人間と使う人間がいれば機能に思想が付与されるのも自然の成りゆきである。たんなる「記録」に過ぎないはずのセーブという行為は、しかし搭載されてだれもが使うようになった時点で新たな意味を持つようになっているのではないか。セーブ/ロードの形態をみっつほど挙げて比較してみようというのがこのエントリの目的となる。
1. 世界のコネクタとしてのセーブ
セーブとはたんなる記録であって、そこに「再開時に前回とおなじ状態から始められる」こと以上の意味はないと思われる。だが、その「おなじ状態」という事実は直感的に思う以上に重要な要素なのである。なぜならわれわれはある瞬間にゲームをプレイしているとき無意識のうちに直前の状態を前提としていて、それが現在の振る舞いかたに移行して組みこまれているからだ。たとえば、アクションゲームでジャンプした瞬間やレースゲームで走行中にポーズをかけて別のプレイヤーに交替したら再開後にミスをする可能性はかなり高いだろう。べつにアクションの要素がなくてもかまわない。少々極端かもしれないが、しかし他人のRPGのセーブデータを引き取ってプレイすることも、たいていの場合は不愉快ではないか?――たとえ2周目のプレイなどでストーリーをすでに知っていて、物語に対する混乱が生じていなくてもだ。その不快感は、パーティー編成やキャラクター育成の仕方といったプレイスタイルやゲーム観の大きな齟齬や、特定のアイテムの有無および所持金の多寡といった彼我の差から引き起こされる小さな違和感の蓄積などによってもたらされていると考えられるわけだが、つまりけっきょくのところ現在の状態を過去からの連続性に求められないところに問題が帰結するだろう。単位時間の切り方がアクションでは細かくRPGでは大まかになっているにしろ、振る舞いの断絶によってゲームをプレイできなくなることに変わりはない。たとえおなじゲームであっても、プレイヤーがちがえばそこに構築されるのはもはや別の運動、別の世界である。
こういった想定から理解されるように、ひとつの振る舞いに対応できるプレイヤーはつねに1人ということになる。逆にいえば1人のプレイヤーを受け止めるにはひとつの連続的な世界が必要であり、プレイヤーが同一であり続けるならばゲームのほうも一貫している必要がある。「おなじ状態から始められる」ことがセーブ/ロードの意義だとするならば、そのシステムによって「世界の一貫性」をゲームの側から保証されていると考えることが可能だろう。それは時間軸に沿ってゲームの進行という1本の線を縦に引いていくときに設定されるコネクタのような機構だ。ゲームを中断するたびに線はいったん途切れるが、切れた線の先にはプラグ(セーブ)がついていて再起動のさいにジャック(ロード)へと接続され、総体として運動・世界・物語の連続性を保持する。RPGなどにおける「ボス戦の直前でセーブしておく」行為は、辿ってきた線を少し戻り、また同じ道を歩きなおすものであり、その意味において一貫性を持ち続けている。この意義はもはやたんなる作業状態の保持にとどまらない。セーブ/ロードすることによって、われわれは世界への一貫したかかわりを拒否されることなく「プレイヤー」でありつづけられる。昨日の自分と今日の自分がおなじだという無意識の前提は、セーブという機能によってのみ保たれている。われわれがその事実に無自覚のうちに甘んじているとしても、それはけっして軽視されるべきものではないのである。
2. 回帰地点としてのセーブ
さて前節の話は、どちらかといえばセーブ本来の機能の延長上にあり、そこから大きく外れたものではない。だが、セーブというシステムはまた別の展開を見せている。それを象徴する存在としてギャルゲーを照射してみることにしよう。わたしのギャルゲーのプレイ経験はとても豊富といえないものだが、それでも管見のかぎりでは、あるいはネットで調べた範囲で述べるなら、このジャンルにおいては非常に多くの、それこそ何十といった単位でセーブデータのストックを置けるようになっていることが一般的のようである。これは一見するとあきらかに過剰なデザインだが、ギャルゲーはたしかに意図してそれだけの量を用意しているように思える。そのことはなにを意味するのか。
機能的な観点からいえば、この設計はおそらくギャルゲー自身の構造と密接に関係しているにちがいない。ビジュアルノベル形式を採っているギャルゲーの場合、ストーリー(ギャルゲーの場合、唯一ストーリーが世界の流れを規定する要素である)の一般的な基本構造は先ほど述べたような1本の線ではなく「共通の導入部から選択肢によってストーリーが分岐し、各所でイベントが起こってそれぞれのエンディングに到達する」という具合にツリー形状をなしている。よってクリアする(すべてのエンディングを観る)には必然的に再プレイが要求されるわけだが、効率よくやろうと思うならいちど通過した共通部分を何度も見ることに意味はない(既読スキップの存在はその意識を証明するはずだ)から、ストーリー分岐の直前の状態を記録しておいて次からはそのポイントからスタートしたほうが合理的である。つまり、ギャルゲーにおけるセーブは繰り返しプレイを前提としている。もし選択肢が出てくるたびにストーリーが広がっていくなら(実際にはそこまで極端ではないにせよ)ゲームの進度に対して分岐地点の数はねずみ算式に増加していくことになるから、たしかにデータの置き場は数多く必要となるだろう。
また、「シーン回想モード」が搭載されていることからあきらかなように、ギャルゲーはクリア後のプレイヤーにお気に入りの場面をなんどでも観たいという欲求を強く喚起するジャンルである(それは○○に萌えたいという言説にひとまず回収してよいかもしれないが、本筋ではないので措く)。ただ仕様上の問題としてすべてのシーンが即座に再生できるわけではなく、たとえばわたしが最近プレイしたギャルゲーは『群青の空を越えて』であるが、いわゆる「回想モード」に回収されるのは特別なイベントシーンのみであって、立ち絵で構成される日常のシーンはメニューから直接再生できないわけである。この仕様が一般的なものかどうかはよく知らないが――ただし調べてみるとべつにそのことについての悪評は見あたらないので、たいていこんなものなのだろう――、少なくともこの2作においては、回収されないお気に入りのシーンをいつでも見られるようにしたければゲーム上でその直前にセーブし保持しておくしかないということになる。このセーブはその意図からして上書きするわけにはいかないから、熱心なギャルゲープレイヤーにとってストックの数は多ければ多いほどよいことになる(*2)。
分岐のためと再鑑賞のため、ギャルゲーのセーブストックが大量に存在する理由としてはおおむねこの2点が考えられるわけだが、どちらの理由であるにしろセーブについての思想が前節で述べたそれとまったく異なっていることだけははっきりしている。前節で捉えたセーブは、切断された世界をコネクトしてプレイの連続性を保持し、結果的に1本の線を作り出すために存在した。世界はひとつであり、時間軸に沿って流れていくべきものであった。だがギャルゲー(に代表されるシステム)は世界の分岐のために(それとも萌えのために)、ある過去の地/時点を「回帰すべきところ」として積極的に設定する。世界は(女の子ごとに?)分かれていくものであり、過去は戻ってやりなおすためのものだ。これはさきほど述べた「ボス戦の前にセーブしておく」というような失敗に対して保険をかける行為とは決定的に違う。保険的セーブはあくまで戻らなくてすむならそれに越したことはないが、ギャルゲーには「積極的に」「肯定的に」過去を捉えようという発想が根底にある。ギャルゲーの構造は多世界的で、そういう世界を自在にプレイするためにセーブは回帰すべき地/時点の指標となるフラッグの役割を果たし、プレイヤーはロードすることで立てられたフラッグへとすぐさま向かうことができる。この場合のセーブ/ロードはいわばプレイヤーに与えらえた時空間を飛び越える装置である――世界が分岐する以前へ、または分岐した以後に並行的に生じた別の世界へ、それとも単純に帰りたい思い出の場所/ときへといつでも跳躍するための。ギャルゲーのセーブ/ロードは、その設計によってプレイヤーがゲーム内の多世界を網羅的に捉えるのを助けることになる(*3)。
セーブ/ロードが世界の跳躍装置になるということは、それが外部的なツールではなくゲームの構造そのものに組みこまれうることを意味する。その証拠に、ギャルゲーにおいてはもはや「どこでセーブしておくか」ということまでもが、つまりセーブ/ロードの存在そのものが攻略の要素となりえている(たとえばこのように)。これはセーブを線的世界の接続と捉えたままではとうていたどり着かなかった思考であり、その意義を高めた歓迎すべき進化といえるだろう。たかがセーブと侮ってはならない。ここではたしかに、機能がパラダイムを創出したひとつの好例(個人的にはギャルゲーがもたらした大きな意義としてその歴史に付け加えてもよいと思う(*4))を見て取ることができるのである。
3. 不可逆なオートセーブ
話を『リトルビッグプラネット』に戻そう。冒頭書いたように、このゲームでは完全なオートセーブが採用されており、セーブ/ロードについてはコマンドすら存在しない。ステージプレイ中でもときどき左下にアクセスマークが表示されるところを見ると、おそらく獲得したアイテムもすぐさま保存される仕様になっている。ストレスを微塵も感じさせないすばらしい設計だが、同時にそれはあくまで、世界を線的に見る立場においてのみいえることではないだろうかという疑問も湧く。
つまりこういうことだ。オートセーブとは、節目において以前の状態をプレイヤーの意思にかかわらず削除し、強制的に新たな状態に書き換える機能である。これはまちがいなく節(1)のモードとしては最適化が進んでいるが、しかし同時に節(2)の要素は完全に拒否されてしまっていることになる。オートセーブにおいてはつねに「もっとも最近の過去」のデータしか残されず、それ以外の地/時点への遡及がいっさい許されない。この強制性はかならずしも良好な進化とはいえないのではないか。たしかに便利ではあるかもしれないがしかし「機能としての利便性」にとどまるのみで、(オートではない)セーブ/ロードが獲得していたはずの「時空間の自由な跳躍」という大きな利点をみずから捨て去ってしまっているのだから。
十把一絡げにオートセーブに問題があると述べたいわけではない。ただおそらく構造的にそれを採用できるゲームは限られている。それを探るためにたとえばオートセーブのゲームの代表として『ダービースタリオン』シリーズを挙げてみると、ROMカセットを使用していた時代は週を送るごとに牧場・厩舎の状態が自動で上書きされていき、そのうえで『3』ではレース中に、さらに次作『96』ではそれに加えて平日にでも、リセットボタンを押すと強制的に翌週へと飛ばされ、リセットした週の行動はキャンセルされた。これはゲームの側からの「やり直しを許さない」という姿勢の表明であり、題材が競馬であることなどを考えてもその不可逆性を貫く態度には一定の信念が認められる(現実の競馬が不可逆に進行していく以上、それをなぞるゲームがリセットを駆使して有利な状態だけを保とうとするプレイをよしとしないのは当然だろう。『ダビスタ』においてリセットしないことは誠実さの証明であった……もっとも、「合理的な」プレイヤーはターボファイル(これまた懐かしい)を使用したうえであっさりとあの四角いボタンに手を伸ばしたにちがいないわけだが)。このシリーズにおいてはプレイヤーは過去へと戻りたがるが、ゲーム側が正当性の維持のためにそれを押しとどめようとしており、そのために強制的なオートセーブを必要としている。
あるいはくだんの『リトルビッグプラネット』の場合であるが、これはそもそもプレイヤーが過去に遡及する動機を持たないような構造になっている。ストーリーが分岐するわけではなく、またいちどクリアしたステージならいつでも再プレイ可能(むしろ再プレイを前提に作られているだろう)で、それが有利不利に影響しない。またスコアもオンラインにしろスタンドアローンにしろもっとも高いものが保持されるのでそれでかまわない。それにリビッツ(キャラクター)側に不可逆なパラメータが設定されていないから、「前の状態のほうがよかった」という後悔も発生しないようになっている。パラメータという意味では、リビッツのコスチュームは獲得したアイテムを使って自由に着せ替えられるわけだが、そのスタイルについては個別にセーブできるのもこのゲームがオートセーブを問題なく運用できることを逆説的に証明するだろう。つまり『リトルビッグプラネット』においてプレイヤーの意思で保存しておく動機が生まれる場面というのはせいぜいがリビッツの見た目を悩むときだけなのであり、それ以外では自動で状態が上書きされてもいっこうにかまわないわけである。
このように見ていくと、『ダビスタ』ではゲーム側、『リトルビッグプラネット』ではプレイヤー側という主体性の違いはあるが、どちらにも共通しているのは「戻るべき/戻りたい過去」の存在を拒否するか不要としていることであるとわかる。これらのゲームにオートセーブを搭載せしめるのは、徹底して過去を問題としない態度だ。『ダビスタ』の例からは節(1)に属する「線的な世界での保険的なセーブ」に対する許容度のなさが見てとれ、『リトルビッグプラネット』のほうからは節(2)で述べたギャルゲー的構造との相性の悪さが見えてくる。その意味でオートセーブの存在可能性はきわめて限定的だ。完全に1本の線で構成され不可逆性が問題とならないゲームなら、というよりもそのようなゲームのときにのみ、それは有効な機能なのである。
以上のようにセーブを概観したうえで結論めいたことを述べるなら、オートセーブは今後かならずしも主流になっていく機能ではないだろうと考えられる。少なくともRPGやギャルゲーにとってはあくまでプレイの補助的な存在にとどまり、けっしてそれだけですべてが足りるような存在にはならないはずである――なぜなら文字どおり「自動」のシステムだからだ。それがプログラムされた行為を繰り返すだけの営みであるかぎり、「同時並行的なツリー状の多世界のあいだを自由に飛び回り、過去への遡及を求める」というプレイヤーの積極的な選択を受け入れることができない。オートセーブのもとでは、ゲームは並行世界の観察や時間の逆行といった現実に対して圧倒的に優れている点を失ってしまう。それは自動であるがゆえにプレイヤーに使ってもらえず、システムとしてただ一方的に時間を下ることを強制的に要請する。機能が人間に使われることによってその機能性を拡張するならば、自動化された機能はシステムに沿って回る歯車以上の価値を持たないだろう――歯車としての価値は高くとも。その意味で、オートセーブの弱点はまさにその存在理由であるはずの「オート」の部分に隠されているというべきだと、とりあえずいまの時点でという留保はつくものの、思われるのである。
(*1)それはひとつに、セーブすることもまたゲームのプレイに取りこまれた儀式だからでもあろう。なお参考、「そして儀式は蘇る」。
(*2)すべてのシーンがすぐ見直せるならこの意味でのセーブストックはたいして必要ないことになるが。
(*3)このとき、どの世界(=攻略キャラ)に飛ぶにせよゲームがスタートからプレイされていることに変わりはない。つまり、ひとつの世界に対しては一貫性が失われていない。
(*4)もちろんこの考えかたはギャルゲーに限らず通用するだろう。だがもっとも一般的に採りいれているのはギャルゲーだと思われる。