as red flag - reviews about game

under chequered flag

AUG.20.2008

そして儀式は蘇る


『ゲームセンターCX』(以下『CX』)を見ていると、そういえば懐かしく、有野晋哉がROMカセットをファミコンやメガドライブの本体に差しこむ前に端子部に息を吹きかけている。だれがはじめたかまたどうやって伝わったか知らないが、たぶん全国のファミコン小僧が気づいたらおこなっていたその動作は、どこまで実効性があったのかいまもってよくわからないし、メーカーにしたらとても推奨できなかった――かりに息によって湿気をもつことで接触がよくなるために起動しやすくなるのだとしたら、おなじ理由で端子が錆びがちになってしまうわけだから――にちがいないが、ともかくぼくらが子供だったころはなかば常識的な作業のように思われていたのである。『ゼビウス』をやるときも『高橋名人の冒険島』をやるときもぼくらはなんどもカセットの溝に息を吹きかけていたし、あるいは『ドラゴンクエスト(以下ドラクエ)3』『4』のときは、唾を飛ばして端子を濡らしてしまうと冒険の書が消えてしまうような気がして、すこし静かに吹いていたのだった。
 ファミコンというのは子供にとってじつに繊細な機械で、プレイ中にカセットに触れたり、運が悪いと興奮のあまりコントローラを引っ張って本体がすこし動くだけでも非情な電子音とともに画面がノイズだらけになって遊びの中断を余儀なくされる。起動するときもただたんにセットするだけではたいていうまくいかず、みんなそれぞれに自分だけの最適なカセット差しこみ位置をもっていて、たとえばうちのファミコンではカセット全体を浮かし気味にしつつさらに向かって右側をほんのすこし上げるように差すとうまく映ってくれた(『CX』では有野が無造作に差したあと「課長on!」とさけんでスイッチを入れると同時にきれいなゲーム画面が出るけれど、あれが編集の結果でそう見えるだけであって、ほんとうは毎回起動に悪戦苦闘しているとすればどれほど素敵だろうかと個人的には思っている)。ファミコンを快適にプレイするために凝らさなければならない工夫はさまざまで、そのうち基本中の基本が「息を吹きかける」ということだったにちがいない。ゲームがうまく起動せずにカセットを抜けば、埃など見あたらなくてもかならず吹いてから祈るような気持ちで差しなおす、それでゲームがちゃんと始まると無意味に信じていたし、じっさい2度目に電源を入れたときに無事メニュー画面が表示されることで、その動作が有効であると思いこんだのだ。そしてたぶん、そういうことを繰り返すうちに「カセットを吹くこと」もまたゲームを開始するためのプロセスとして組みこまれるようになっていく。もはやそれは、高橋名人が「ゲームは1日1時間」というその1時間をすこしでも有意義に使うための必死の工夫である以上に、子供だったぼくらがかならず執り行うべきひとつの儀式だったにちがいない。「ファミコンを起動するために悪戦苦闘する」というゲームからすれば外部的な、つまり身体的な困難を乗り越えることで、さらにその解決を単純でわかりやすくそれでいてちょっと独特な動作に象徴させることによって、ぼくらの意識は身体ごとゲームへと切り替わっていった。ここでは行為の有効性よりも行為じたいが行為者にもたらす効能が優先されている。極端にいえば、カセットを吹くという行為を要求していたのはファミコンの側ではなく、それを動かすぼくらのほうであり(*1)、そうする瞬間、電源を入れる以前に、ぼくらはたしかにファミコンをプレイしようと「決意」していたのだった。
 ファミコンを扱ううえでの身体的な独特の所作をゲームに捧げる儀式とするなら、それはなにも開始時にかぎってなされるものではなく、ゲームの世界から現実へと戻るために、やはりぼくらは重厚な動きを必要としていた。つまり『ドラクエ3』『4』を終えるとき、丁寧にカセットを扱っていたわけだ。不確かな記憶に身を委ねれば、城や教会でセーブしたあと冒険を終了すると、画面には「おつかれさまでした。リセットボタンをおしながらでんげんをきってください」というようなメッセージが表示されて、それにしたがわなければ「ぼうけんのしょ」が消えてしまうかもしれなかったから、ぼくらは粛々とそう振る舞った。右手でリセットボタンを押したまま左手で電源を切り、画面が完全に砂嵐になったことを確認してからおもむろにカセットを抜いてかたづける。なによりもだいじなセーブデータを保護するためにはそれくらいカセットを丁寧に取り扱わなければならないと思っていたし、もっといえば慎重に差してゲームをはじめゲームを終えて慎重に抜く動作まで『ドラクエ』のプレイに含まれていたとさえいっていい。子供にすればゲームは高価なおもちゃだったが、それに対して儀式的になる動機は金額の大きさと別のところにあった。
 現在ゲームは光ディスクのもので、本体にセットすればピックアップレンズがきちんと信号を拾ってつつがなくゲームを開始してくれるようになっている。ゲームがなかなかはじまらないのはファミコンのときとおなじだが、その理由はたんにディスクのロードに時間がかかるから、という内部的な都合に変わった。ただ、プレイステーションのロゴが画面に現れてメニューに移行するまでの待ち時間と、ファミコンが映らないことで浪費される時間はやはり決定的にちがう。いまのゲームが「Now Loading」と表示させているとき、ぼくらは画面をぼんやりと見やりながら、あるいは待ち時間をつぶすためにあらかじめに用意しておいた本を読みながら、ディスクの回転音が落ち着いて自分が操作する出番が来るのをただ待っているだけだ。ボタンひとつで、それどころかパネルにタッチするだけでなされるスムーズな起動。ゲームは、ぼくらがはじめようとする覚悟とはかかわりなく、確実に、かってに、しかしすこしぼんやりとはじまるようになった(ファミコンは、起動さえすればゲーム開始までは一瞬だったのだ)。レンズの汚れやディスクの傷でうまく動かず右往左往することがあるにしても、それはファミコンのトラブルを解消しようとすることほどには日常の風景でないだろう。いつもプレイするゲームのディスクをトレイに入れっぱなしにしているとしたら、遊ぶために骨を折る必要など、もはやない。
 カセットの時代の終焉とともに、儀式は失われた。とはいえ、そういう儀式的な作用をもたらす装置までもが退場したかといえばそうではないはずだと考えて、ふっと『グランツーリスモ5プロローグ』を遊ぶときの「G25 Racing Wheel」(以下「G25」)が思い浮かぶわけである。「G25」は、PS3の起動に際してポジションのキャリブレーションのため自動的にステアリングをロック・トゥ・ロックさせて中心に戻るのだが、シートに座ってその回転を前にするといまから『GT5』をプレイするのだという感慨が強くなってくる。アクチュエータのきしむ音とともにステアリングが回転してさいごにカチリと中心に収まるとき、ぼくの意識はたしかにゲームへと切り替わっていくのだ。そこにファミコンに対していたときのような能動的な動作があるわけではない。USBケーブルで「G25」とPS3がつながれてさえいれば、電源が入ると同時にステアリングは勝手に回り、勝手に止まる。それじたいはとても楽なもので、ファミコンのときの苦労とは比べるべくもないが、にもかかわらずそこから受け取る感覚はじゅうぶんに身体的だし、回転しているさまもたしかに儀式的に思える。
 その理由は、「G25」もまた「ハード」であることと関係しているだろう。ゲームのプレイとは、結果が画面のなかで表現されているとしても、けっきょくのところ手元の装置を操作することにほかならない。入力と出力の関係はソフトごとにちがっているものの、ゲームの感触はつねにハードの手触りに還元されるし、ソフトが毎日替わってもハードはそう頻繁に交換されない。ようするに「いまゲームをプレイしている瞬間」の楽しさを決めるのはソフトの質だが、「ゲームをプレイする恒常的な営み」に深くかかわっているのはハードの存在そのものだ。ファミコン本体・カセットに働きかけるときやステアリングコントローラの起動が可視化されるときにプレイへの決意が顕在化し、また儀式的な所作も現れるのは、ハードのもつ「ゲームをするための装置」という機能が剥きだしになって自分と相対するからなのである。
 いまプレステのロゴが消えるのを待っているとき、それはすでに画面のなかだけで完結しているためにハードとのかかわりを感じることができない。だからプレイに際しての決意は固まりにくいし、待ち時間の振る舞いも儀式たりえない。ハードが剥きだしの機械から遠ざかったぶんだけ、直接対峙することは難しくなった。「G25」もすべてのゲームで使うわけではない。ぼくらはスムーズに動くハードの前で、ゲームをやるときの決意を忘れかけている。というよりは決意を必要としなくてもゲームをやれるようになったといったほうが正確だろうか。それは道具の変化がもたらしたパラダイムシフトだからどうなるものでもないし、否定するのはたんなる懐古趣味でしかないだろう――とはいえ、やはりいま有野が『CX』でカセットを本体に差すときの姿はりりしい。有野はきょうもカセットに息を吹きかけ、覚悟とともに挑戦をスタートする。ぼくらはそんな有野の姿を見て、それこそが正統な、そしてこのうえなく正当なゲームのはじめかただと、ようやく思い出す。


(*1)儀式は、その動機や意思にかかわらず執行対象ではなく執行者のためにある、たとえば葬式、たとえば雨乞い。


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