as red flag - reviews about game

under chequered flag

OCT.13.2010

とある遊戯の計算機〈プレイヤー〉


 2010年10月11日、「コンピュータが人間に挑戦する」という形式で、将棋の清水市代女流王将とコンピュータ将棋システム「あから2010」の対局が行われ、86手をもって後手のあから2010が勝利、史上初めてコンピュータがプロ棋士を打ち破った。渡辺明竜王とBonanza(あから2010とも深い関わりを持つ)の公開対局から早3年、ついに歴史がひとつ塗り替えられたことになる。
 中盤までは接戦で清水優勢の局面もあったようだが、少なくとも終局図を見るかぎり後手あから2010陣の美濃囲いにはまったく手がついておらず(7二の銀、6一、5二の金がそっくり残っている)、傍目にはコンピュータの圧勝に見えると言っていいだろう。ただこの結果はおおかた戦前の予想どおりといったところかもしれない。2007年の時点でのちの永世竜王とそこそこの戦いを演じてみせたコンピュータが3年の時を経てハードもソフトも強化されて臨んできたのだから、女流の第一人者でタイトルホルダーといえども棋力的にはよくて奨励会初段前後だろう清水が苦しい戦いを強いられるのは、残念ながら当然の理でもあったはずだ。すでに男性アマチュアトップレベルに大きく勝ち越し、清水上徹アマすらも破っていたコンピュータ将棋。おそらく引き受け手の少ない対局を承諾するという火中の栗を拾ってくれた清水には申し訳ない言い方だが、やや手合い違いだった感もないではない。
 報道では「プロ棋士」という言い方がなされ、事実将棋を指して金銭を得ている以上「プロ」以外の何物でもないのだからこのエントリの冒頭でもそれに倣ったが、将棋ファンなら知ってのとおり「女流棋士」はそれ自体がひとつの独立したカテゴリーであり、「奨励会三段リーグを勝ち抜いて四段に昇段」するという「真の」――これも変な表現だし女流に対して失礼とも思うが順位戦や各棋戦に当然の権利として出場できるという制度上の意味で――プロ棋士になった女性、つまり「女流棋士」ではなく「女性棋士」は、いまだかつていない。何に起因するのかはわからないがともかく現状として男女差は大きく、女流強豪の一角を占める甲斐智美女流二冠ですら、奨励会は2級(二段ではない)で退会して「女流」での戦いに収まっている。あから2010を開発した情報処理学会は「名人に伍する力あり」と将棋連盟に対して挑発気味に挑戦状を叩きつけたが、最終的には今回破った清水が1割しか勝てない男性下位プロの壁となって立ちはだかるトッププロばかりを相手にして7割以上の勝率を残す羽生善治三冠を相手にしなければならないのだから、目指す先はまだまだ遠いということである。
 しかしそれでも、コンピュータ将棋の進歩について疑う余地はない。あから2010の名前は漢数詞の阿伽羅(=10の224乗)に由来し、将棋の局面10の226乗に近いことから名付けられたとのことである。実際のところ全幅検索であらゆるパターンを読みつくせるわけではないのだろうが、将棋というゲームそのものを根底から網羅してしまおうという気概の感じられる野心的な名称であるし、事実「将棋の結論」を見据えてさえいるのかもしれない。そのシステムは激指、GPS将棋、Bonanza、YSSという世界コンピュータ将棋選手権の上位常連である著名な4プログラムにそれぞれの指し手を検討させてそれを「合議マネージャー」が集約して最終的な着手を決めるという方式で、実際に「読み」を担当するハードウェアの方もIntel Xeon 2.80GHz 4コアを109台、Intel Xeon 2.40GHz 4コアを60台並列させたクラスターマシンという豪華な(容赦ないとも言えそうな)ものであった。このシステムが将棋を指して、みごと女流王将を破ったのである。
 ……将棋を指して? 記念すべき事績の直後だからこそ、あえて問いを発しておこう。「あから2010」は「将棋を指した」のだろうか。すくなくとも、われわれ人間はそのことを無条件に認めてもよいのだろうか。もちろんこの問いについては、取り付けられたマニュピレーターで自ら駒を持ち、詰みを読みきった際には駒音高く将棋盤に打ちつけなければ「指す」とは言えないというきわめて身体的な意見すらありえよう。それを極論と退けるとしても、「コンピュータが将棋を指す」ことは多少なりとも哲学的な問題を含意するように思われる。たとえばクラスタリングとネットワークの認識の問題として、あるいはアラン・チューリングにまつわるような問題として。




 アニメ『とある科学の超電磁砲』での「脳」の扱いは、一般的な認識にくらべてずいぶんとコンピュータ寄りに位置しているように見える。この作品では人間の超能力を開発する教育カリキュラムを施す「学園都市」に住む学生たちが、脳で行う何らかの「演算」によって超能力を発現させているが、作中、科学者の木山春生がある方法を使って学生1万人の脳どうしをリンクして巨大なネットワークを作り上げ、高度な演算を実現しようと目論む事件が起こる。通常1人の人間に発現する超能力は1種類だけで、能力の強さも各人の演算能力に依存するが、木山は個々の脳を繋げ、ネットワークの「主」(自分自身をハブとしたということなのか、このあたりの理屈はよくわからない)となることで全員分の演算能力と、各ノード固有の超能力を並行して使いこなすという規格外の力を手に入れて、彼女の計画を阻止しようとする主人公・御坂美琴と対峙することになる。
 物語の粗い筋道については措くとして、注目すべきは木山自身が「能力開発」を受けていない一般人であることと、各人に固有のものだったはずの超能力がネットワークにおいて同時使用を可能とされつつ、ネットワーク全体としては演算能力が強化されているというその状況設定だろう(*1)。能力者の脳をCPU、超能力をプログラムに見立てると、各CPUにひとつの固有プログラムが走るというやや特異な前提の中、木山はそれらをノードとして連結、クラスター化することで同時複数の演算とプログラム実行を果たすことになったと説明がつく。木山は美琴との戦闘において実際に複数の能力を使用してみせるが、超能力を発現している木山自身はその能力自体の構成要素ではなく、能力の構成要素である能力者はネットワークに内在するだけで表出しないことは明確になっている。彼女は彼女の能力によってでもなく、ノードの能力だけによってでもなく、「木山ネット全体」として美琴と戦った。これはあから2010の思想と本質的に変わりない。先述のように、あから2010は単一のコンピュータ/プログラムではなく、676の脳(109×4+60×4のコア。CPUをこう分けることは正当ではないかもしれないが)と4つの人格(激指、GPS将棋、Bonanza、YSS)を備え、それぞれの人格が出した意見を合議マネージャーが統合して結論を出す全体的なシステムなのだから。
 その意味で、あから2010の勝利に対してこう論難することもさほど不当とは言えないだろう。すなわち「清水市代はひとつの脳、ひとりの人格として戦ったのにもかかわらず、あから2010は脳も人格も単一ではない。まったくもってアンフェアだ」。あから2010は単体の将棋プログラムではなくひとつの巨大なシステムであり、誤謬を承知で大雑把に言えば羽生善治と渡辺明と久保利明と広瀬章人がそれぞれ持った170個の脳を並列回転させながら相談しあっているようなものだし、その結論を表現する「あから2010と表記されて表に出ている存在」はあくまで合議体であって将棋を指す脳を持っていないと言ってもいい。あから2010と清水の対局は、木山と美琴の戦闘が1対1に見せかけた1対多数であり、また木山が自分自身の能力でもって「(極めつきの高性能ではあるものの)シングルコア=ひとつの脳/シングルプログラム=ひとつの能力」しか持たない美琴と戦ったわけではないのと同様の構図を持っている。渡辺と対戦したときのコンピュータがBonanzaという単一のプログラムと8コアのCPU1基(ひとつの脳と考えることもできる)で構成されていたのに比べ、あから2010の場合クラスター化されたネットワークの存在感が強大すぎて、実際に指し手を考えているはずのノードの姿が見えてこない。そんな「個」ならざる「システム」が一人のプロを凌駕したからといって、それを正当な対局と呼べるのか。
 直感的にはフェアではないと言いたいところだが、この疑問はつまり、「主体的なノードで構成されるネットワークそれ自体が主体として振る舞うのは可能か」という問いに変換できるだろう。とするとわれわれは、主体的な存在である「わたし」や「あなた」というノードによって構成され、実体のないネットワークであるはずの社会がときに質量をともない、果ては戦争などの暴力行為にまでおよぶ可能性があることを知ってしまっている。意思の集合体でしかない社会はしかしだれのものでもない意思を携えて進むことがある。ネットワークは、個々のノードの主体を連結しながら自身もひとつの主体になりうるのだ。『とある科学の超電磁砲』でも、美琴との戦闘でダメージを受けた木山がネットワークを押さえつけられなくなった結果、暴走したネットワークが「1体の」実体を持った怪物となって現出した。いやそんな議論以前に、われわれ人間自体が個々の細胞をノードとしたネットワークによって構成された個体にちがいない! とするとネットワークがたしかに実在し、ひとつの個であることを認めないわけにはいかない。このような論点を擁護する立場を取るならば、あから2010の勝利を「コンピュータ群対1人の棋士」という偏ったものではなく「1個のコンピュータ対1人の棋士」の対局の結果として受け止めることに違和感はなくなるはずである。




 だがコンピュータ・クラスターを認めたとしても、コンピュータが将棋を指すという概念について結論を得られたとは言いがたい。クラスター問題は「コンピュータが人間に勝つ」定義についての立場を表明しうるものではあるが、そもそも「将棋を指す」行為にかんしては何も答えていないのだ。あから2010は将棋というルールの枠組みにおいて清水市代に勝利した。それは紛れもない事実である。だがあから2010が見ていた風景がどんなものだったのか、その「将棋」がいかなるものなのかという議論については、まだ慎重になってもいい。
 数学者のアラン・チューリングは、機械が知性を持っているかを判断するにあたって、ひとつの立場を提案した。いまではチューリング・テストとして知られるその案は、雑駁に言うと「人間が、機械との応答によって自分が他の人間と交信していると騙されるなら、その機械は知性を持っていると判定できる」とするものである。これをコンピュータ将棋に当てはめるなら、つねにフレーム問題に突き当たることになるだろう。「x手先までしか読まない」というフレームが思考にかぶさっていると、コンピュータはその枠内にある最善手を読むことはできても枠外の手を読むことはできず、人間からすると無意味な着手を連発する(*2)といった問題を露呈する。これは世界コンピュータ将棋選手権においてでさえたまに見られる光景であり、このような事象をもってコンピュータと人間の将棋の差異を論じることはできるかもしれない。
 しかし清水との対局においてあから2010はそのような問題を――快勝であれば当然だろうが――起こしていないどころか、随所に「人間らしさ」を発揮していた。4手目の△3三角は先の王座戦で指されたばかり、コンピュータらしからぬ相手の意表を突く手で(しかも当事者である藤井猛が解説を担当していたことで会場が沸くというおまけまでついた)、14手目の△8二玉については佐藤康光が「人間を挑発している」と評した。序盤の駒組みのときには藤井が「普通っぽい将棋で解説しようがない」とまで述べ、人間同士の対局と変わらない進行がされていることをほのめかしている(清水市代対あから2010の解説より。解説者=佐藤康光九段・藤井猛九段・里見香奈女流二冠、http://live.nicovideo.jp/watch/lv28720698)。何も知らないプロ棋士がこの対局の棋譜だけ見たときにコンピュータ対人間と看破するかどうか素人の私に判断はつきかねるが、あくまでこれに限れば人間を騙すことも可能であるようには思われる。ではさらに長じてフレーム問題が完全に解決したという仮定のもと、もはや人間とコンピュータの指し手が区別できなくなったとして(もしかしてあまりに強くなりすぎた結果として区別できるという皮肉が待ち受けているかもしれないが、そこまではひとまず考えない)、「コンピュータが将棋を指す」ことを人間の行為と同様に捉えられるだろうか。
 ゲームの目的にかんして言えば、コンピュータも人間も「相手玉を詰ます」という認識で一致する。駒の動きは正しく分かっているし、禁手を指してはいけないのも理解している。阪田三吉は関根金次郎との香落ち対局で「銀が泣いている」と残したと伝わるが、いかにも人間的な詩情を思わせるこの言葉さえ、コンピュータが「銀の働きが悪いために自分が不利」という局面評価を生成することで同様の意図を表現できると考えられよう。目的も手段もルールの理解も、思考のフレームさえ人間と相違なく揃えているコンピュータが「将棋を指す」条件は整ったように見える……? 本当に?
 チューリング・テストに対してジョン・サールによる「中国語の部屋」という反論が存在する。これは「中国語を解さない人が、マニュアルにしたがって任意の漢字文字列に対して特定の文字列を返す行為を繰り返す。マニュアルは文字列の対応が質問とその回答になるよう定められているから、従順な作業者は質問に「正しく答える」ことになり、部屋の外の人にはあたかも対話が成立しているように見える」という思考実験だ。このシステムはチューリング・テストに合格するが、もちろん部屋のなかの当人は作業の意味を何も理解していない。この部屋をコンピュータ将棋になぞらえると、コンピュータは将棋に対して正しい出力を行ってゲームを成立させ、人間を騙しもできるものの、しかし将棋というゲームを理解しているわけではない=意味論的な将棋指しではないとすることができる。コンピュータが自陣の穴熊囲いを高く評価して優勢と判断するとき、「なぜ穴熊が優れているのか」と考えているわけではない。そもそも、「相手玉を詰ます」ことにさえ理由を求めているわけでもないだろう。かつてのBonanzaが詰み専用のルーチンを持っていなかったために即詰みを無視して駒得を目指すことが多かったことなどから推測されるように、結局コンピュータは「プログラムに設定された価値の高い行為」に走っているだけで、全体として何をしているか、突きつめれば将棋の本質は見えていないのだ。CPUはただの計算機であるという議論によって「将棋の部屋」のコンピュータを退けるやりかたではあるが、このような立場は将棋に限らずひとつの勢力である。
 とはいえチューリング・テストがそのような意味論的な知性への批判も含意していると考えると、結局この手のコンピュータ批判もやや褪せて見えてしまう。どう論難したところでコンピュータはプロ棋士と対局できてしまうのであるし、第一われわれ自身が将棋の本質とやらの何を知っているというのか。コンピュータに搭載されたCPUが将棋を理解していないのと同程度にはわれわれの脳細胞だって将棋を理解しておらず、細胞の連結によって人間という個が現れるから細胞単体の機能は関係ないと主張するなら、おなじ主張をコンピュータに当てはめることも認めなければならない。将棋を指すという枠組みにおいて、機能を満たすコンピュータは人間同様の知性でもって「将棋を指す」と考えてもよいはずだ。すくなくとも、チューリングのやり方に納得してしまうのであれば。




 たんに古典的な問いを提示しただけにとどまって有効な回答を与えることを端から放棄している本エントリではあるが、しかしここまで来てまだなお疑問を残している。設定値の先を読まないことで思考の限界が定まる水平線(フレーム)問題については先述したが、最後に裏の水平線とでも言えそうな問いを残してこの話を閉じたい。  将棋プログラムは局面の優劣判断に評価関数を採用していて、これは読んで字のごとく、現在の局面を駒の損得や利き、玉の堅さなどで評価し点数化するものであるが、この際1手ごとにまっさらな状態から局面を判断するようだ。「過去の指し手は未来の指し手に影響を及ぼさない」(AというルートとBというルートで偶然同一局面に至ったとして、ルートごとに思考を変える必要はない)ことを考えれば当然だろうが、この、1手指されるたびに更新される「現在」の局面という思考方法がわたしにとってみょうに引っかかる曲者として視界にちらつくのである。将棋プログラムはつねに現在の局面を評価している。ではその瞬間、「過去の局面」はコンピュータにとってどんな意味を持っているのか、それとも意味を持っていないのか。こう言い換えてもいい。コンピュータは、果たして将棋をいったいどこから「読み始める」のか--つまり、「背中側」の水平線はどこにあるのか?
 たとえば相掛かり戦の場合、先手が▲2六歩と飛車先の歩を突き、後手も応じて△8四歩、▲2五歩、△8五歩と進み、一度角頭を受けるために▲7八金と上がって、後手も同様に△3二金としたところで、▲2四歩、△同歩、▲同飛、△2三歩、▲2八飛ないし▲2六飛と進行する。この一連の流れ、とくに5手目の▲7八金は絶対の定跡だが、人間がこう指すときには初手からの指し手の連続性が意識されているという感覚が一般的だろう。歩を突きあったから金を上がるべき局面に至ったのであり、先手2筋と後手8筋の歩がお互い伸び合っているという局面が「いきなり」出現したとは考えない。人間は連続性の中で局面を判断するはずだ。わたしは自分でも寂しくなるほどに将棋が弱いが、そんな下手の横好きでさえ自戦の感想をやれば初手から終局まで曲がりなりにも並べ直すことができる。あらゆる局面が過去の局面から移行しているということを前提しているからだ。
 序盤だと定跡が絡むので話が分かりづらいが、たとえば中盤の入り口で駒がぶつかっていくようなケースを考えると、人間なら攻めの形をデザインして着手し、以降の指し手を進めていくことになるはずだ。この攻め(または受け)のデザインは全体がセットであり、途中の変化は相手の応手によっていくつか考えられるとしても、進行中の局面がそれぞれ独立しているとはまず考えない。
 しかし、局面が変わるたびに新たな評価を数値化して優劣を判断するコンピュータ将棋の場合はやや不思議に思えるプロセスを辿る。まず攻め(受け)をデザインする段階ではとりあえず人間とおなじだろう。たとえば「大駒をぶつけて交換を強い、敵陣への打ちこみを図る」ための着手は未来の読みとセットである。だが評価生成のたびにそれまでの手順をすべて切断するという前提をおくと、実際に大駒を交換した後はもともとのデザインと無関係に「自分が大駒を持ち駒にしており、敵陣に隙がある」という局面から評価がはじまり、最善手として持ち駒を(たとえば▲6一飛と)打つという結論を得ているとしか考えられなくなる。どうも前者と後者には意図のずれが生じているように見える--プログラム的な現実としてあるこの「切断」こそが、わたしのコンピュータ将棋に対する最後の問いである。
 毎回の評価生成という前提から生まれるイメージは、清水市代はあから2010というシステムと86手を指したのではなく、2手目のあから2010、4手目のあから2010、6手目のあから2010……という具合に、毎回あから2010のコピー&ペーストが登場しては去っていったというものだ。現れるのはつねにまったくおなじあから2010だが、すくなくとも「後から現れるあから2010」は「それ以前のあから2010」と思考が繋がっていない。この切断に対する評価もまた、コンピュータ将棋を捉えるひとつの立場を考えるものになろう。初手から投了までが切断され、一貫したデザインのもとにない対局は1つの対局なのか、それを担った対局者は一局を戦ったと言えるのか。そして、先のノード/ネットワークの単一性とは別の意味において、すぐ背後に水平線を背負ったコンピュータに連続した人格を持った「ひとりの棋士」を見ていいのか--。あから2010の勝利にこの問いを投げずにはいられない。コンピュータ将棋はチューリング・テストをクリアできるし、意味論的知性の議論には取り合わない選択肢がある。だがこの切断にかんしてはコンピュータ将棋システムの構成に内在する問題だ。たとえコンピュータが将棋において知性的に振る舞えるとしても、自らの内にその知性の結合を解いてしまう可能性を秘めていることを、評価関数の存在は示唆しているのである。




 人間と対局できることをもってコンピュータが「将棋を指せる」と認めるのか、それでもなお意味論的に棋士という存在であることは拒絶するのか。もちろん、発展めざましい人工知能がついに意識を持って将棋を指すようになったときが将棋を指すコンピュータの誕生と言うひともいるかもしれない。なんにせよ、そう近くはないが遥か先でもない未来として、現役名人がコンピュータ将棋システムに手も足も出なくなる日はやってくるだろう。コンピュータが人間を超えたとき、そのシステムにわれわれは棋士としての矜恃を見るだろうか。ことはわれわれの知能に対する態度に踏みこまれる。そう、古典的な哲学だったはずの問題がいまようやく現実の問いとなって目の前に迫ってきていることを、あから2010の勝利は教えているのだ。


(*1)コンピュータ・クラスターが並列処理であるのに対して、木山のネットワークは各ノードの演算能力を直列的に加算しているようにも見受けられるが、ひとまず本題ではない。
(*2)これも単純化して言うと、たとえば「3手までしか読めないコンピュータが、3手目に自玉が詰まされることを読んだ場合、ともかく王手をして負けを5手目以降=思考のフレームの外に追いやって延命しようとする」といった具合で起きる。3手目より先がコンピュータには見えないという意味で、水平線問題とも呼ばれる。


ページ上部に戻る トップに戻る