as red flag - reviews about game

under chequered flag

11.JAN.2010

物語とシステムの狭間で――JRPGという群像


 妻に勧められて『テイルズオブヴェスペリア』(以下適宜『TOV』)をクリアし、あまつさえトロフィーコンプリートまで達成してしまったのだが、振り返ってみるとロールプレイングゲームを最後までプレイしたのは久しぶりで、何年もなかったことだった。もちろんだからといって『TOV』が優れたゲームかという結論を導きたいのかといえばそういうわけではなく、たとえば「「自分で動かす」ことと「物語劇」の親和性の低さに自覚的になってもいいんじゃないの」といった感想を抱いたりもするわけで、しばらく日常のよい暇つぶしになっていたぐらいのことである。ただ、かようにRPGをやらなくなってしまったわたしに対し、この1ヵ月のあいだの『TOV』がいくつかの疑問を提起していたこともまた事実であった。そこで鮮やかな活劇を見せつける登場人物たち、なかでもリタ・モルディオの存在が、核心的な問題をわたしに突きつけてきたのである。はたしてわたしはいまだわからずにいる。RPGの世界とは何なのか、そして、その領域とはいったいどこまでなのだろうか。『TOV』は、リタは、その答えを曖昧にしたままこの長いゲームの終わりを迎えさせてしまったのだった。




Chapter0

 現在の日本でもっとも売り上げを事前に見込めるシリーズが『ドラゴンクエスト』(以下適宜『ドラクエ』)のナンバリングタイトルであることはほぼまちがいなく、事実2009年7月に発売された『ドラゴンクエスト9』は発売直前での延期というトラブルに見舞われながらも「ファミ通」によればすでに400万本以上を売り上げ、相変わらず第一級の国民的RPGの座にあることを証明した。このソフトを手にする人の多くに共有される「中世の西洋風」「剣と魔法」「人間と魔物」といった堅牢な世界観はメディアがニンテンドーDSになっても維持され、変わらない価値を保ち続けているが、ゲーム中多くの時間を費やされる戦闘シーンはその最たる部分で、かりに20年間ゲームを触ることのなかった人にいまの『ドラクエ』をプレイさせてみても、さほど混乱なくモンスターを倒すことができると思われる。キャラクターの特技や呪文のバリエーションこそ増えたものの『ドラクエ』の戦闘は『1』以来本質的な変化がないまま作品の数が重ねられており、いままで起きた最大の、というより唯一の革命は、1991年に発売された『ドラゴンクエスト4』で採用された「AI戦闘システム」になるだろう。従来のRPGで当然とされていたコマンド入力によるパーティメンバーの行動決定が、『ドラクエ4』では、主人公の勇者を除いて自動になされるようになったあのシステムである。プレイヤーはわずかに「みんな がんばれ」「いのち だいじに」といった指針(作戦)の立案でそこに介入できたが、攻撃も回復も、呪文を唱えるのも道具を使うことも、直接には決められなくなった。それはやや奇妙なプレイ感覚で、勇者の行動を選ぶとすぐにモンスターとの攻防が始まってしまい、戦闘に対して意図せず傍観的になるものだったが、仲間が自律したことで、ボタンを押すべき回数は減ることになった。
 また、AIが果たした役割はたんに仲間の自動化だけではなかった。AIは戦闘ごとの行動の結果を学習し、おなじモンスターと遭遇した場合には過去を参照してより適した行動を選択した。以前はプレイヤーが担っていたはずの「●●には△△の呪文が効く」といったゲームの記憶が、コンピュータに委ねられるようになったのである。戦闘を重ねれば重ねるほど味方が賢くなり、行動は自動的に最適化され、プレイヤーが介入する余地は確実に削られていく。AIによって以前プレイヤーがやるべきだったことが失われ、やらなくてもよいことが増えるようになった。いや、このいいかたは適当でないだろう。それはすでに最初から「やれないこと」となって、プレイの前提から遠ざけられたのである。『ドラクエ4』は省略を善とし、プレイヤーに楽をさせるようにチューンアップされたソフトだった。
 おそらく挑戦的なアイデアだったといえるはずのAI戦闘システムは、しかし当時かならずしも評判が良かったわけではなかった。学習ルーチンの問題で仲間が不合理な行動を起こしがちだったことはよく言われる(有名な例ではクリフトがボス相手に効きもしない「ザラキ」を連発してしまう)ところだが、そもそも自陣の行動すべてをプレイヤーがコントロールしきれないところがプレイヤーのストレスとなっていたことは否定できない。仲間が自律的に自分の意思で行動するとは、つまりプレイヤーによる全体的な戦術が否定されたに等しいものだ。AIは一方で戦闘の簡略化を実現し気軽なプレイをするための機構であったが、他方その代償として戦闘をAボタンを押すだけの作業へとより強く誘導したのであり、そのことがゲームを遊びたいプレイヤーにとっての不満になっていたことは想像に難くない。それゆえなのか、次作以降、AI戦闘システムはかろうじて残りながらもプレイヤーがすべてのコマンドを入力する作戦「めいれいさせろ」が追加され、完全なAIによる戦闘の道は潰えた。そののちにプレイステーションやニンテンドーDSで『ドラクエ4』はリメイクされることになるが、端緒となった作品でありながらAIに徹しきれずに「めいれいさせろ」は残され、どのキャラクターの行動もプレイヤーが決定できるように変更されたのである。その流れがとどまることはなく、結局いまに至るまで『ドラクエ』シリーズにおけるAI戦闘システムは革新的な転回を遂げないまま、ファインチューニングを繰り返して快適なプレイをサポートするだけの機能へと落ち着いている。『ドラクエ』の数多のナンバリングタイトルやそのリメイクで戦闘のシステム面がさほど話題にならなかったのは、AI以降、シリーズを通して正統なアップデート以上の導入をしてこなかったからといってもさほど異論は出ないだろう。是非はともかくそれが『ドラクエ』の、『ファイナルファンタジー』シリーズとは決定的に異なる保守的な面であった。
 現状を鑑みれば大きな成功を収めるには至らず、すっかり安定的なシステムの座に安住しているかに見えるAI戦闘だが、ここではそれを歴史の一ページを刻んだアイデアとして捉えるにとどめず、日本的なコンピュータRPG、いわゆるJRPGの在りかたと関わる形でいま一度検討することを目的としたい。AIと世界、あるいはAIと物語。両者はどのように結び合い、RPGを形作るのか。そして『テイルズオブヴェスペリア』でリタが見せた振る舞いは、いったい何を意味するのだろうか。

 なお以下の検討に関連したゲームについて言えば、わたしがプレイしたことのあるソフトは『ドラゴンクエスト』の『1』~『5』および『7』『8』、『ファイナルファンタジー』の『5』と『13』の冒頭部分、PS3版『テイルズオブヴェスペリア』であり、とくに『テイルズ』シリーズについてはプレイ経験が浅いことをお断りしておく。また、『ドラクエ4』にかんしては特に第5章に照準を合わせていることに注意されたい。




Chapter1

1.1

 はじめに、なぜAI戦闘システムは『ドラクエ4』をもって採用されたのかという疑問がある。もちろん実現に至った直接的な要因として、おそらくハードそのものの進化があったとは考えられる。歴史を振り返ってみると、前作『ドラクエ3』の発売は1989年で『ドラクエ4』はそれから2年を経て完成したが、その間にROMカセットの容量は2Mbitから4Mbitへと倍増を遂げており、使用できるリソースはかなり潤沢になっていたと想像される。もちろんこの2Mbit分の増加が具体的にAIの搭載に必要不可欠なものだったのかは定かでないものの、AIが戦闘の記憶とかかわっているかぎり、少なくともプアな容量で実現することが簡単ではないことは想像されるはずだ。『ドラクエ4』の環境でそれがはじめて可能になったのだとしても不思議はない。だがそのようなリソースの多寡といった技術的な実現可能性を別にしてもなお、『ドラクエ4』でAIが採用された事実に意味を見出すことが可能ではないだろうかと思われてならない。つまりおそらくどのような経緯を経るにしても、AIの採用は『ドラクエ4』でなければならなかった。たとえ2Mbitの容量があれば十分だったとしても、そしてすでにアイデアが煮詰まっていたとしても、『ドラクエ3』の戦闘がAIに任されることはなかっただろう。なぜなら自律したAIは仲間の主体という問題に深く関わっているからだ。
『ドラクエ3』は最大4人での冒険が可能なパーティシステムであるが、そのなかで物語に確定的な登場人物は16歳の誕生日の朝に母親に起こされ、アリアハンの城で王に謁見して魔王を倒すべく旅立つ勇者1人だけで、その他の3人については勇者が城下で営業する「ルイーダの酒場」で斡旋してもらうという、雇用関係さえ想起できそうな「たんなるメンバー」の感が強い。彼(女)らはどうやら勇者のように特段の使命を持っているわけでもなく、勇者と運命的な出会いを果たしたわけでもなく、ただそのとき「呼ばれた」というだけの理由で旅に同行している。ある戦士を仲間にする必然性はゲームのどこからも感じることはできないし、ゲームを最後まで進めてもその戦士が仲間でなければならない理由はない。それどころか、バラモスやゾーマを倒してもなお、われわれは仲間のことをなにひとつ知ってはいなかったはずである。物語の進度にかかわらずルイーダの酒場に行けばつねに仲間の交代が可能だったことからも明らかなように、『ドラクエ3』の仲間は交換不可能な唯一の主体ではなく、選別しようのない匿名の存在、武闘家か僧侶か魔法使いなのかという性質と、各種ステータスのパラメータに分解された数字だけを持った統計的なひとりであった。最終的に世界まで救ってしまう英雄となるにもかかわらず、彼(女)らの顔は曖昧なまま見過ごされていたはずである。
 そのような『ドラクエ3』の「誰でもよかったはずの仲間」が『ドラクエ4』にいたって固定化された人物へと変質することになったことはプレイ経験者にとって自明だろう。バトランドの王宮戦士ライアン、サントハイムの王女アリーナと神官クリフト、教育係ブライ、エンドールの武器商人トルネコ、そしてモンバーバラの踊り子マーニャと占い師ミネアの姉妹。彼(女)らは固有の名前を持ち、顔を持ち、肩書を持った文字どおりのキャラクターであり、ルイーダの酒場で気軽に入れ替えられるような存在ではなくなった。それだけの個性を持ったキャラクターのことをプレイヤーが世界から「消し去る」権利などどこにもなかった。なにより「導かれし者たち」というサブタイトルが変質のすべてを物語っていたにちがいない。いかにも運命的な邂逅を想起させるそのタイトルによって特定の・唯一のキャラクターの存在が露骨なほどに表明された。それは明らかに『ドラクエ3』の特徴である仲間の交換可能性の否定だった。
 しかも『ドラクエ4』では、最終的に勇者のもとへ集う7人をキャラクターづけするだけでなく、彼(女)らの物語を4章にわけてオムニバス形式でプレイヤーに体験させるという周到な準備を施すことによって、その唯一性をより強調してみせた。前作ではけっして表明されることのなかった仲間の過去、それがいきなり眼前に展開される。われわれはライアンの人生をコントローラの操作によって辿ることで、あたかも絶対にライアンこそが勇者に出会うべき戦士であると錯覚することになる。「導かれし者たち」というサブタイトルと相まって、勇者の伴をする戦士はもはやライアン以外ではありえなくなったのだ(*1)。もちろん2章~4章のキャラクターについてもおなじことだ。5章で彼(女)らが集ったあと、のちのJRPGによく描かれるようなそれぞれのキャラクターに関連するイベントこそあまり用意されてはいなかったものの、プレイヤーにメンバーを選択する余地がなかった点で、『ドラクエ4』の仲間はたしかに唯一だったのである。
 匿名的な仲間と、固有的な仲間。われわれの知らない仲間と、知っている仲間。両者はおなじ「仲間」という相貌を持ちながら、明らかに性質を異にしている。その違いについて重要なこととして、プレイヤーに対する他者性の獲得に注意することが可能だろう。『ドラクエ3』のパーティメンバーはプレイヤーが恣意的に選択した「誰でもよかったはずのなかの誰か」であったが、それに対し『ドラクエ4』の「導かれし者たち」は「ライアン」であり「アリーナ」であり「トルネコ」という確固たる人であって、それ以外の存在ではありえ(てはいけ)ない。その意味で彼(女)らはプレイヤーの意思や振る舞いから完全に独立した形でそこにいる。プログラム上のデータで、事前に決められたとおりにしか動かないとわかっていたとしても、だとしてもなお、もはや「わたし」とは厳然と区別された「あなた」として、プレイヤーはキャラクターに接しなければならない。
 注意深く見なければならないのは、『ドラクエ3』のパーティメンバーがプレイヤーが酒場に赴いて仲間として登録しなければけっして世界に現れない存在だったことである。物語と深く関係しないどころか、文字どおりどこにもいなくなってしまうのが『ドラクエ3』の仲間だった。仲間が命を得られるかどうかの権利はプレイヤー自身が完全に掌握しており、いってしまえばその意思はもはや「あなた」ではなく「わたし」のもとにある。彼(女)らはけっして自らの行動原理を持っていないし、自分で何かをしようという動機さえ持っていない。そうやって価値観をすべてプレイヤーに委ねているような「仲間」が何人集まったところで、他者という自分の合理性とは異なる存在が現出するはずもない。「パーティ」と胸を張っても、実質は1人を4人に見えるように水増ししただけの擬装に過ぎないのだ。『ドラクエ3』における仲間はすべて「わたし」の延長線上にいる。それはどこまでも「わたし」の意思に従って動かなければならず、だからこそプレイヤーは勇者を動かすのとまったく同じように仲間の行動も決定する必要があったのである。
 そこに仲間自身の主体はない――『ドラクエ3』の仲間は本質的に仲間と呼べる他者的な存在ではなかった。たとえば「名前」の問題をとることで、そのことはよりはっきりするだろう。




1.2

 古典的なRPGを起動してまっさらな状態からスタートするときプレイヤーが最初にすべきことはなにかと問われた場合、おそらく(「セーブデータの作成」は措くとして)「主人公の名前を付ける」という答えを提示することができるだろう。RPGにおいてはある名前を持って世界を冒険することをプレイヤーが決めてゲームを始めるのである。
 だがそれ以外に「名前を付ける」という行為が積極的に設定されるゲームはさほど多くない。『スーパーマリオブラザーズ』は「マリオ」であり、『ロックマン』ももちろん「ロックマン」であって、その名がプレイヤーに委ねられているわけではなかった。シューティングゲームでは名前を入力する機会があったが、それさえスコアに対する記録として事後的に決めるもので、マシンを操作するパイロットの存在感を規定するものではない(*2)。たしかに今でこそ名前を決めなければならないシーンは数多く、たとえばレースゲームのドライバーが「わたし」であることは名前によって確定し、また『実況パワフルプロ野球』のサクセスモードを遊ぶならその選手がだれかを決めなければならないし、『シムシティ』ですら、名前によって市長のアイデンティティを求めてくる。だが昔についていえば、名付けはRPGでこその特別な行為だった。
 ロールプレイングゲームを字義どおりに捉えて遊ぼうと思うなら、名付けは必須の儀式である。マリオはマリオであって「わたし」ではないから、『スーパーマリオブラザーズ』をプレイするとき、われわれは自分とマリオを無意識にでも区別してしまうが、それはマリオの超人的な振る舞いを傍観するしかない、どちらかといえば醒めた遊び方だ。だがRPGは、プレイヤーのすべてをキャラクターに投影することを要請する。竜王を倒すのは一見勇者だが、同時にわれわれでなければならない。そう錯覚することでカタルシスを得ることができるし、アクションなどにくらべれば退屈なはずのRPGを楽しむことも可能になるからだ。
RPGを最大限に遊ぶためにプレイヤーとキャラクターのあいだにイコールを差し挟むこと、両者を同一視させるための仕掛け――名付けとはそのような意味を持つ。RPGの主人公に自分の名前を付けた経験のあるプレイヤーは数え切れないほどいるだろうが、それはもちろん世界を救う喜びがキャラクターを通して自分自身に重ねられるからだ。マリオによるピーチの救出は外から眺めたたんなる物語だが、竜王を倒す勇者の冒険は経験的である(アクションゲームの場合「アクションを完遂した」というプレイヤーとしてのメタな感動を設計することが可能だからキャラクターがプレイヤーに重ね合わされなくても構わないのである)。もちろん、自分の名前を付けるばかりではないだろう。しかしたとえ違う名前を付けたとしても、名付けは対象の命運を握る力を持っている。ゴッドファーザーは名前を与えた相手に、心の内でいわば呪術的に干渉することができる。名付けた対象の行為はもう他人事ではない。
『ドラクエ3』の仲間が「わたし」の延長であるということも、このように名付けの問題として見えてくる。プレイヤーは最初に主人公=勇者の名前を決めてゲームを開始し、そののちにルイーダの酒場で仲間に対しても名前を与えた。勇者は名前を与えられたことによってプレイヤーと人格を同一にし、プレイヤーの意思に従って冒険することになる。勇者の客体化はプレイヤーの名付けから始まっている――それどころか、名付けによって勇者は『ドラクエ』の世界に生まれたとさえ理解できるだろう。そしてまったく同様に、その他のパーティメンバーも名付けによって客体化されるのだ。仲間がルイーダの酒場で文字どおり誕生することは先述したとおりだが、ここにおいて誕生(させること)と名付けは明らかに同義である。プレイヤーがあらゆる登場人物の名前を決める『ドラクエ3』では、こうしてパーティ全員がプレイヤーの意思のもとに集う。すなわちコントローラの操作によってのみその行動を決定することになる。
 AIが『ドラクエ3』と『ドラクエ4』の狭間で生まれてこざるをえなかった必然性はここにある。プレイを始めればすぐに明らかなように、『ドラクエ4』でプレイヤーが名付けるのはもはや勇者ひとりに限定されていて、その他の仲間はライアンであり、アリーナであり、トルネコであるという、既定の名前を持っていた。キャラクターが名付けられることによってプレイヤーに客体化されるのだとするならば、『ドラクエ4』の仲間は積極的に名前を持つことでそれを拒否したことになる。プレイヤーの意思に支配されることなく、自分自身の価値判断をもって行動する主体。それはまさに、プレイヤーの手から離れた存在=AIとして物語に参画する。AIとは仲間がプレイヤーから解放されたあとにキャラクターに付与される彼(女)の意思である。そのような唯一の意思を、名付けのもとにプレイヤーから支配されていた『ドラクエ3』の「仲間」に与えることはけっしてできない。
 AIという機構と、それがプレイヤーとキャラクターの分離を意味していること、オリジナル版の『ドラクエ4』ではそのことがスタートから明確に主張されている。最初から冒険を始めたときのことを思い出そう。「ぼうけんのしょ」をつくり、勇者の名前を決定すると、第1章のライアンの物語がスタートした。勇者が登場するのは5章なのだから、そこで初めて名前を決めることもできたはずなのに、そうはされなかった。しかし考えてみれば、自分と他人、わたしとあなた、主人公と仲間という、『ドラクエ3』では同一だったはずのそれらを切り離すタイミングはここ以外にありえない。名付けという儀式によって自分自身を仮託する対象を決定したにもかかわらず、異なる名前を持った人物がいきなり物語のなかに現れている奇妙な違和感。われわれプレイヤーはその瞬間、物語の側から名付けの権利を剥奪されたことを知り、勇者=自分とは違う何者かの存在を認めざるをえなくなる。それはAIという機構を受容するためプレイヤーに必要とされる覚悟だ。先述のオムニバス形式と合わせて、『ドラクエ4』は注意深く、このゲームらしい親切さで「他者」をプレイヤーに浸透させたのだった。
 歴史的な事実として『ドラクエ4』がAI戦闘システムを搭載するために自律したキャラクターの存在を創出したのか、個々のキャラクターを前面に押し出す群像劇を求めた結果AIが導入されたのか、アイデアの順番はわからない。だが前者ならば必然的な帰結として、後者ならば記念碑的な仕掛けとしてそれは導入され、RPGにおけるキャラクターの意味を変質させた。動機はどうあれAIというシステムが契機となってゲームにおける他者、すなわち物語の「プレイヤーとは違う語り手」という存在は発見されたのである。
『ドラクエ4』以降、このシリーズのみならず日本のRPG全体がキャラクターと世界を語ることを重視するような方向性ができあがり、2009年末現在で『ファイナルファンタジー13』を突端とする「JRPG」と呼ばれるゲーム群が形成されていく、という経緯が筆者の漠然とした感覚である。仮に古典的なコンピュータRPGとJRPGのあいだに溝を作るとするなら、仲間という問題を軸に設定することによって、『ドラクエ3』と『4』をそれぞれの崖として象徴的に対置させることが可能となるかもしれない。だがここまで述べてきたとおり、『ドラクエ4』がその時点ですでに備えていたJRPG的な部分は、AI戦闘システムと関わることによってその機能性を得たものだ。JRPGは物語の渇望によっていきなり立ち現れたのではなく、あくまでゲームを遊ぶシステムに救/掬われたものとして形成されたものということは、やはり記憶される必要があるだろう。




Chapter2

2.1

 筆者氏のゲームに対する深く広い知見を窺わせるブログ『枯れた知識の水平思考』では、『ドラクエ9』が発売された直後のエントリ「ドラクエ9はJRPGではない」(2009年7月13日)で「ドラクエ9には魅力的なキャラが出てこないし、濃厚な(人によっては厨臭いともいう)ストーリーもない。[…]おそらくドラクエ9にはドラクエ3以降、日本のRPG、所謂JRPGが積み上げてきたユーザーを引きつける魅力的な要素がごっそりと、ない」と述べ、その在りかたをどちらかといえば『ドラクエ3』に近いゲームと位置づけている。『ドラクエ』が自ら筋道を立てたJRPGを拒否し、あえて古典的な立場に留まろうとするのならば、どうしても『3』に回帰しなければならないという直感が前掲リンクからは浮かび上がってくる。『ドラクエ3』が古典的なコンピュータRPGのひとつの到達点であることは、『4』以降との相違をつぶさに観察することで感じられよう。
 もちろんこのことは『ドラクエ3』がJRPG的な物語を軽視していたという意味ではなく、むしろゲームシステムを人間の内面に迫ったストーリーで肉付けするような試みはこの時点ですでになされていたといえる。だが『ドラクエ3』の物語は、あくまで勇者だけを軸とした「父を追いかける子」の姿として描かれていた。父オルテガが行方不明になったネクロゴンド火山の火口にガイアの剣を投げ入れる勇者がいるとき(このシーンでプレイヤーは勇者の悲壮な決意といったような感情を受け取り、さらにその感情を勇者に投げ返すことだろう)、勇者に生み出された仲間の3人はその姿にコミットすることができない。この象徴的なシーンのみならず、仲間――物言わぬ仲間は物語へのコミットメントをことごとく拒否されており、偶然の歴史証人以上の立ち位置を持たなかった(*3)。『ドラクエ3』の物語は1人の勇者にフォーカスされたその他の物語の欠如であり、名前を持たぬ仲間は存在することで逆説的に欠如をあらわにしていたのである。
『ドラクエ4』の群像劇は、『3』で強調された他者の物語の欠如を埋めていくためにあった。各章の構成を見てみればわかるように、のちに勇者の仲間になる7人はそれぞれ旅の目的を異にしている。ライアンはまだ幼少であろう伝説の勇者を探し当てて保護するために領国を後にしたが、2章のアリーナたちは祖国サントハイムから一斉に消えた城内の人々の行方を追うために世界を放浪することになるのだったし、トルネコの目的は伝説とされる「天空の剣」を探し求めることで、マーニャとミネアの姉妹にとっては圧政を敷く暴君で父の敵でもあるキングレオを打倒することがなによりの宿願だった。彼らの目的はかならずしも勇者=プレイヤーと一致しない。デスピサロを倒すという最終的な目標は、あくまで勇者と仲間が旅をする過程で培われ、共有された(と想像が成り立つ)ものである。実質的に1人の主体性しか持たなかった『ドラクエ3』が父の影を追う形で徹頭徹尾バラモス(から、のちにゾーマ)を倒すべき冒険で貫かれていたのに対して、『4』は仲間それぞれが獲得したアイデンティティに物語の重層性を託していた(エンディングで仲間が一度それぞれの故郷へと帰っていく様はそれを切ないほどに思い出させる)。登場人物それぞれの人生を重ね合わせてひとつの物語を紡ごうという動機はJRPGに共通の特徴であるが、それがAIシステムとともにあった『ドラクエ4』にはっきり見て取れることは注目に値する。
 情報生態論を専門とするドミニク・チェンは「ピュア・プロセス・ペルソナエ(Pure Process Personae)」(*4)と題された文章において、「与えられた物語の役割を演じるという古典的なRPGの定義は、その本質において、文学作品と通底する。すなわち、読者=プレイヤーが作品の中で演じられる人格(ペルソナ)へと成って行き、再び自らの人格(ペルソナ)へと再帰していく運動である」と述べつつも、ゲームの場合は「自律的に作動し、固有の時間的累積をたたえる世界のなかへと際限なく逸脱することが可能」とし、プレイヤーの主体性によって「脱物語化」を図りうる可能性をRPGの特徴として捉えている。だがチェンがあえて「古典的な」と断っていることからも窺えるように、ハードの進化とともに物語を肥大化させてきた近年のJRPGからそのような特性は失われつつある。JRPGは幾度となく「一本道のストーリー」などと批判を浴びながら、しかし「脱物語化」を拒否するような態度を一貫してとり続けてきた。そのことがJRPGを硬直化させているといった類の指摘はおそらく正しいが、いま想定したいのは、その原因と考えられるもの――前節同様やはり「仲間」、あるいはキャラクターの問題である。

 すでに幾度か参考にしているように、このエントリを書くにあたっては「ユリイカ」2009年4月号の特集「RPGの冒険」から多大な示唆を得ているが、さらにもうひとつの文章を参照することにしたい。前田塁+二見遊+蔦屋敷ラボラトリ「冒険者と商人」(*5)上段に、『ドラクエ4』の第1章に焦点を当てた以下の記述がある。

王の話を聞いてライアンを操作しようとすると、失踪した子供の母親が寄ってきて「あの子はまだ生きています ああ でも急がないと 手遅れになってしまう(下線は原文傍点)」と(おそらく)涙ながらに訴えてくるシーンが挟まれる。だが知ってのとおり、その焦燥とは裏腹に事件が「手遅れになってしまう」ことはない。


 事実、スピードクリアを目指そうと、ライアンのレベルを99まで上げるという不毛な作業を遂げてからピサロの手先のもとに向かおうと、誘拐された子供たちはライアンの手によって解放される。子供が殺されることも、ライアン以外の戦士が先に事件を解決することもない。これは、RPGの世界がプレイヤーの操作によってある特定の人物(この場合はライアン)にフォーカスされることでのみ変動し、物語が語られることを意味しているのだと前掲文は述べる。そして前田+二見+蔦屋敷ラボラトリはまた、特定の人物にフォーカスされた語りがほかの人物の語りを消し去ることを指摘する。つまり、われわれプレイヤーはライアンを操作することによって『ドラクエ4』(第1章)の世界における「ライアンの物語」を知ることはできるが、同時にライアン以外を主体とした物語を知る機会を失っているのである。世界に外側からかかわるとはそういうことだ。RPGでわれわれが特定の主人公を操作する以上、その世界の相貌は主人公=「わたし」の意思に貫かれた形でしか存在することができない。『ドラクエ3』が徹底的に「わたし」の物語だったのは、主体的な仲間の不在に起因する。
「操作」を物語の鍵とするRPGでは複数の主体に対して同時にコミットすることが不可能だ。「わたし」の視点はつねにひとつであり、仮託対象の変更は可能でも、同時並行的な、重層的な「わたし」は持ち得ないのである。だからAIによって自律的に行動する主体が揃えられてしまった『ドラクエ4』で、たとえばキングレオを倒すとき、われわれプレイヤーは世界の関わりかたへの選択を迫られる。勇者にコミットしてマーニャとミネア姉妹の仇討ちを手助けしつつ、デスピサロへの手がかりを得たと思うのか、姉妹となって悲願を果たしたことに気持ちを落ち着けるのか。一方を選択すれば他方は他者となり、その物語は(選択した方の「わたし」にとって)失われる。ひとつの決断としては名付けの対象である勇者にコミットすることだが、おそらくわれわれは無意識のうちにもうひとつの選択肢へと引きつけられていったのではないか。つまり勇者と姉妹の主体を同時に回収するために、コミットメントを脱却してゲーム世界の外部から『ドラクエ4』を眺めるという選択肢である。世界の内部にいる限り、「わたし」は他者の語りを共有できない(あるいは「共感」なら可能かもしれないが、それだけのことだし、そんなものが何になるというのか)。だから対象がゲームの世界であることを利用して、全体を俯瞰する。そうすることでわれわれは複数の物語を一度に把握することが可能になり、視点を失わずに済む。
 だがもちろん、その代償は純粋な意味での「ロール・プレイング」の剥奪によって購わなければならない。プレイヤーとしての「わたし」を物語の外に置くというのは、すなわちあらゆる登場人物を他者として認識することしかできなくなることを意味するからだ。古典的なRPGが主人公の旅路とともに一貫した「わたし」の、わたしだけが語りうる物語を生成するのに対し、JRPGのプレイは複数の主体が現れることで「すでに書かれた物語」――語り(ナラティヴ)を失った物語(シナリオ)――を文学のように読む行為へと変わっていく。JRPGが「一本道シナリオ」「自由度の低さ」と批判されがちな理由は、結局のところここに帰着する。そのプレイが既定の物語を読む行為である以上、数々の批判は不可避な問題として目の前に置かれざるをえないのである(*6)
 JRPGはゲームの外と内とをはっきりと峻別し、物語を「読ませる」ことによってプレイヤーをつねに外部へと配置しようとする。こうして「わたし」の主人公への仮託が拒否された後のゲームはそれ以前とどう違ってくるのだろうか。次節ではいくつかのRPGのシステムを比較することでその問題を検討したい。




2.2

 先に『ドラクエ9』がJRPGであることを拒否し、『ドラクエ3』的な相貌を取り戻したということが『枯れた知識の水平思考』で述べられていたと紹介した(*7)。この稿では『ドラクエ4』をJRPG的なゲームの端緒の代表として扱っているが、それはあくまで象徴としての話であって、実際その後の『ドラクエ』が『ファイナルファンタジー』(以下『FF』)や『テイルズオブ』シリーズのような方向へ進まなかったのは明らかだし、だからこそ『9』を『3』に立ち戻らせることも可能だったはずだといえるだろう。『ドラクエ』は現在に至ってもなお古典的な香りを残している。それを踏まえて話を進めることとしたい。
 前田+二見+蔦屋敷ラボラトリは前掲文で、少なくとも古典的なRPGにおいてはキャラクターが操作されることによってのみ物語が語られるということを明確にしている。「わたし」の物語はプレイの瞬間に紡がれざるをえないのだから、コントローラからの入力はすべてそのままRPGの「語り」として形成されていくことになる。それはシナリオの問題ではない。どのような経路で街から街へと移動するか、旅先で何を買い、また売るのか。街を出てどこでモンスターと遭遇するのか、そしてなにより、どのようにモンスターを倒すのか。そういったプレイヤーの決断によって、RPGはつねに語られ、書き換えられる。それらはみなRPGの「物語り」(ナラティヴ)として各人が経験するものである。
 だから古典的なRPG、たとえば『ドラクエ』シリーズのシステムインターフェイスはすべて物語の内部で機能する。『ドラクエ3』のコマンドウィンドウを開いてみると、「はなす」「じゅもん」「つよさ」「どうぐ」「そうび」「しらべる」という行動の選択肢が現れるが、それらはすべて主人公を主語とする動作であることに気付くはずだ(「つよさ」は自分の能力を数字に翻訳して確認する作業)。たとえばアイテムを使う場合、われわれは「どうぐ」コマンドを選んで「だれ」の持ち物からなにを「つかう」かを選択し、その結果「●●は□□をつかった!」とメッセージが表示されて、そのアイテムが消費されたことを確認する。「どうぐ」を使う主体は主人公=「わたし」であり、ここでの行動決定はプレイヤーとしての選択であると同時にRPGの世界に生きる人間としての決断となる。つまり『ドラクエ』のコマンドウィンドウは、ある状況における主人公の意思決定の可能性をツリー状に広げるものなのだ。そこで「わたし」がどうするのかということ――「物語が操作によって語られる」とはその意思決定の積み重ねこそがRPGの「語り」として重みを持つことに他ならない。(優れた)古典的RPGのシステムは世界をはみ出すことがない。時代が下っても『ドラクエ』のセーブが城や教会でしかできなかったのは、それすらも「行動の告白」という形で「わたし」の物語の中に組みこむためである。われわれはゲーム機の電源を入れる/切るという儀式をとおしてRPGの世界に出入りする。そしてそちらの世界にいる間は、正しくその世界の人物として振る舞う(以外にできない)のである。
 だが、もはや「既定の物語を読む」行為としてプレイヤーの存在をゲームの外部に設定するJRPGは、その外部性を躊躇なく露わにしてくる。たとえば『FF5』(個人的によく遊んだゲームだったというだけで、特に理由あって例示したわけではない)で人と話すには近づいてAボタンを押せばよいが、そうするだけで済むことによって、「はなす」コマンドで明確に「行為」が意識されていた『ドラクエ』と違い主体的な意思が漫然とならざるをえない。ゲーム内に「会話する」という動詞は存在せず、われわれは取扱説明書の記述によってA=話すであることを外部的に認識するのみなのだ。加えて足下を調べることもAボタンに割り当てられていたから、行為の決断はますます散漫になる。会話は誰かと話そうというプレイヤーと主人公の一体となった決断ではなく、「Aボタンを押す」というエンコードの復号としてあまりにも滑らかに出力されてしまう。武器の装備やジョブチェンジもシステムとしてこなしているような(あえていうならシミュレーションゲームでユニットを強化するのに近い)感覚を抱かせるし、そのほか、おなじメニューにウインドウの色やゲームスピードなどを調整できる「コンフィグ」があることも、われわれに「自分がプレイヤーである(そしてプレイヤーでしかない)」ことを意識させるに十分である。
 より象徴的な例を挙げるとするなら『FF13』の冒頭がふさわしいことだろう。ライトニングとサッズのペアとスノウ(ほかNPC2人)、両者がシナリオの上でまだ一度も関わりを結んでいないころ、物理的にも隔たった場所にいるにもかかわらず、その持ち物がなんのためらいもなく共有されているのが見て取れる(ライトニングとサッズが入手したポーションを、スノウも使うことができる)。ようするにアイテムを使う行為すらも「だれが・なにを・どう使う」という物語から切断され、プレイヤーという立場からしか関わりえないゲームの「システム」とされているのだ。それは徹底的に「わたし」とキャラクターを断絶する宣言に等しいものである。
『ドラクエ』はけっして「わたし」を失わせはしなかったし、そのことは複数の主体を導入することとなったAI後も変わらなかった。『ドラクエ5』から追加されたパーティ全員のコマンド入力が可能になる作戦「めいれいさせろ」が、AIの行動指針である「みんながんばれ」「いのちだいじに」と同じ階層に並置されていたことを見ればそれは明らかだ。「めいれいさせろ」とは『Mother』にあったような味方の行動決定をオート/マニュアルに切り替えるスイッチでも、JRPG的な外部から全体の行動を把握する視点への移動でもない。ほかの作戦と等価なのだと考えれば、それはただ主人公=「わたし」個人として、仲間に細かく、文字どおり「命令」を出すに過ぎない行為であり、どこまでも内部の取り決めである。結局、決断をゲームの中で行うという分水嶺を越えなかったのが『ドラクエ』なのだ。このシリーズがRPGとしていまだ心地よいのは、その世界が「わたし」の操作によって語られる実感をシステムが支え続けているからともいえる。
 だが、そういった「わたし」を構築するには『ドラクエ』のような覚悟を持つか、もしくは『剣と魔法と学園モノ。』のように過去のRPGを再発掘するしかないのかもしれない。『FF13』におけるシステムとシナリオの断絶から顕著に見られたように、もはやJRPGは「わたし」の物語りではありえなくなった。もちろんその指向を選択したこと自体について賛否を問うものではないが、ではJRPGが物語を読ませることに自らの意義を見出そうとしたとして、それはチェンのいうような「文学作品に通底する」ものだろうか。たしかにわたしはJRPGの原型に「物語(シナリオ)を読ませるための機能」を見出した。だが現状JRPGはプレイヤーに対して執拗といえるほど「プレイヤーとしての自覚」を促し、「物語であること」と同時に「ゲームであること」をやめようとせず、結果われわれはプレイヤーとしてポーションをパーティに対して使う程度にはシナリオへ介入しなければならなくなっている。その介入は純然と物語を読む行為とはまた違う。そのようなJRPGは「プレイヤーが作品の中で演じられる人格」へ自分を重ね合わせること、あるいはそこから「再帰していく運動」すら見失いつつあるのではないか。最終章では冒頭に述べた『テイルズオブヴェスペリア』の登場人物リタ・モルディオの振る舞いを手がかりに、JRPGという世界の不安定さを探ることとしたい。




Chapter3

 RPGがプレイヤーを外部的な存在として意識するようになると、ゲームにある機能が付与されることがある。だいたいの場合ふたつ――モンスター図鑑とアイテム図鑑であるが、「やりこみ」を志向するプレイヤーにとってはこれらのすべてのページを埋めるコンプリートもひとつの目標になるだろう。『TOV』でも両者の完成はそのままトロフィーの獲得条件になっていた。
 しかし図鑑の「コンプリート」という発想は、完全に外部的なものだ。たとえばこの世界のありとあらゆる種類の昆虫標本を手に入れることを目指す昆虫学者がいるとして、彼(女)がそれを達成し満足する日は、どれだけくまなく地球上を探したところでまだ見つかっていない昆虫がいる可能性を絶対に否定できない以上、永遠に来ない。自分がいる世界を内部から完全に把握することは、無限の時間を持たないかぎり不可能なのだ。トレーディングカードのコレクションと対比すればわかりやすいだろう。こちらの場合は完全な収集を達成することが可能だが、それは「トレーディングカードの世界」の全体像をコレクターが外(自分の生きている世界)から「x種類のカードが印刷されており、それより多くはない」という情報を把握することで確認できるからである。もちろん、「トレーディングカードの世界に生きる存在」がいたとしたならば、その存在は「すべてのトレーディングカード」を証明できなくなる。コンプリート=すべてであることの証明を果たすには外部性が不可欠で、物語のキャラクターは基本的にそれを満たすはずがない。
 だからシステムと世界が分断された後であるJRPGにおいて物語の内部で可能な営みは図鑑の「整理・分類」だけで、最終的な「完成」の概念は絶対にプレイヤーのためにある。『TOV』の(アイテム)コレクター図鑑にはアイテムの収集率が表示されるが、これはあくまでコントローラを握っているという意識がもたらすシステム的な、物語から剥離された(なぜか使えるポーションのような)情報であり、登場人物にはけっして知りえないものでなければならない。
 だが『TOV』の道中、白紙の状態にあったコレクター図鑑を少しずつ埋めていく過程において、リタ・モルディオは書き込みを担当したとされるエステリーゼ・シデス・ヒュラッセインに言う。「あたしの見たところ……そうね、まだ半分程度ってとこかしら」。事実プレイヤーの認識によればこのときコレクター図鑑の収集率は50%を超えたところなのであるが(システム的にはそうなることが会話イベントの発生する条件である)、しかしこのリタの断言は唐突な不安感とともにゲームから浮き上がってきてしまう。15歳まで学園都市で研究に明け暮れ、海すら見たことのなかった彼女が、一定程度記入がされたその図鑑に対してなんの恐れもなく「半分程度」と告げる、その把握はどこから来るのだろう。もちろんトレーディングカードのコレクションのようになんらかの枠組みを設定されている可能性を想定してもよい。だが図鑑が(プレイヤーにとって)「完成」したとき、リタはやはり事も無げに「さすがに聖核(アパティア)とか宙の戒典(デインノモス)とか、知らないのもあったけどね」と言ってしまうのだ。目の前の図鑑に未知だったものが記されているにもかかわらず、図鑑に「すべて」が書かれているという確信を、リタは持っている。JRPGという物語を受容しようとしているプレイヤーにとって、彼女の発言は軽々に聞き流せるものではない。
 リタは一流の研究者(彼女の世界にとっての科学を修める者)として『TOV』の世界に登場するが、コレクター図鑑に対する彼女の態度はどう見ても科学的ではない。真摯な科学者ならば、世界のあらゆるアイテムを網羅したなどとはけっして考えないだろう。そのことの検証がおよそ不可能に満ちていることを自覚しているはずなのだから。それに反してコレクションの「完成」を口にしたリタを不明な人物と糾弾することはたしかにたやすいし、『TOV』の物語としての「閉じ方」を批判したいのなら、それでじゅうぶんかもしれない。しかしJRPGがゲームとして物語に介入する機構だとするなら、この問題もまた物語のなかだけにとどめておくわけにはいかない。リタは物語の科学者として失格なのではない。内部からでは分かりえないことを分かり、世界の枠組みを規定する役割を、おそらくゲームの側から(不必要に)担わされた。彼女の発言はそのことを端的に示している。
 たとえばブルボン小林は、著書『ゲームホニャララ』で「フィクションにおいて、「博士」はとてもとても便利な存在だ。物語はしばしば、そのワンダーを高めるためにSF的な非現実の要素を作中に混じらせる。博士は、そのことのリアリティを(簡単に)保証する存在になる」(*8)とその機能性を観察している。とくにフィクションとしての体裁を整えようとするJRPGの場合それは顕著で、多く博士はプレイヤーがいるのとはちがう「ゲーム」の世界を物語に組みこまれた形で正しく解説する役割を果たしてくれる(この点で博士に匹敵するのは王や大臣などの為政者くらいしかいない。『FF』シリーズの解説役であるシドもだいたいこのあたりの立場に収まっている)。プレイヤーの知らないゲームの世界、主人公とプレイヤーが一体化しなくなったRPGでは両者の違いを伝える必要があるが、そこに博士が出てくるのは不自然がなく、また信頼もしやすい。『TOV』でそれに相当するのが世界のエネルギー源を研究するリタであり、彼女はことあるごとに「テルカ・リュミレース」がどのように駆動しているかを(ほかのキャラクターへの説明をとおして)プレイヤーに解説する。すなわち彼女は、その性質としてプレイヤーと物語のコネクタとして存分に活躍せざるをえないのである。
 JRPGが物語とシステムを分断しておきながらゲームという形式においてプレイヤーにその間を往復させるなら、ゲーム世界の外郭を知っているかのように振る舞うリタのような科学者、博士的存在はつねに物語から剥離させられ、メタな役割を持つ者としてシステムの側に組みこまれる可能性をはらむ。リタはその立場ゆえに、物語の人物でありながら世界の外側へ飛び出す遠心力を備えてしまっている。その遠心力が物語の引力を振り切った瞬間に、前述の会話は生じた。「半分程度」とは、まさにシステムの側の謂いとしてある。コレクター図鑑の完成という「システムの機能」をあえて物語に組みこんだことで、もともと曖昧な位置に立っていたリタは、ついにシステムへ引きずられることになったのだ。それは、物語にとっては敗北と言えるかもしれない事件である。
『TOV』は良質のJRPGとして、きちんと「閉じた物語」を提供するゲームだ(シナリオが良質かどうかとは別問題である)。おそらくほかの『テイルズオブ』シリーズにもおなじことが言えるだろう。だが物語が強化されて脱物語化の可能性を狭めながら、しかし同時にゲームでもあり続けようとするJRPGは、プレイヤーにシステムと物語を往復させるのと同時に、キャラクターにもシステムと物語を往復させなければならなくなる。『TOV』は正統なJRPGを貫いた結果、その運動によって生じたわずかなほつれをリタの発言という形で垣間見せてしまったのだ。
 それがサブイベントとしてしか起こらない会話でなされたことはまだ良かったのかもしれない。だがもはやわれわれはリタの存在を捉えきれていない。彼女は物語に生きる人物でありながら、プレイヤーにゲームを導入するシステムともなりうる。それはJRPGが「G」を標榜しつづけるかぎり受け入れざるをえない現実だろう。しかし、そうやって世界の内外を往復しうる存在を抱えこむことによって、今度はJRPGにとってあれほど強化したかったはずの「物語の境界」が曖昧になってしまうこともまた確かな事実としてある。JRPGは「物語」と「ゲーム」の狭間でさまよい、両者を同時に満たす安住の地を探し求めながら、しかしいまだ果たせずにいる。「テルカ・リュミレース」に住む少女リタ・モルディオは、「ロール・プレイング」を失い「物語」にも徹しきれなかった「J」が作り出した不安定な足場の上にかろうじてバランスをとりながら立っているのである。


(*1)ただしこれには注意を必要とする。ライアンという存在がア・プリオリに特別なのではなく、「特別な存在がいる物語」が想定されていてそれがプレイヤーとクリエイターの偶然の選択によってライアンとなった、と解釈するのがプレイヤーのゲームに対する関与の仕方であるというのが、2008/7/19「勇者のために世界はあるか」で言及したことであった。
(*2)2009/1/18「マシン/操作されるもの」で書いたように、マシンという機構はパイロットの存在を自然と想定させる、つまりそこにいるのが自分であることが自明となるから、名付けが必要なかったのだとはいえるだろう。RPGの場合重要なのは、「自分ならざる者を自分のように見なす」ことなのである。
(*3)強いていえば商人をパーティに入れなければ通過できないイベントがあったが、それも商人という「性質」を必要とされていただけであった。なお『ドラクエ3』以前のRPGにおける筋立てがすでにある伝説の反復に過ぎないという指摘は、中田健太郎「人はときに世界を救う必要がある 演技と物語のあいだで」、「ユリイカ」2009年4月号、pp.109-121に詳しい。
(*4)「ユリイカ」2009年4月号、pp.162-167。
(*5)同誌pp.122-130。
(*6)もちろんロラン・バルト以降の今、「物語」は不断に読み替えられていくだろう。だがそれはもはやRPGとは別の営みだし、なにより文学と違って、ゲームの物語はハードウエアの更新によって失われていく危険をつねにはらんでおり、読み替えの機会をいつまでも保証してくれるわけではない。この点、ブルボン小林はゲームを「おもちゃ」と断じていたはずである。
(*7)あらためて断ると、わたしは『ドラクエ9』をプレイしていない。
(*8)「ゲームの中で博士と出会う」2009『ゲームホニャララ』所収、pp.158-162、エンターブレイン。


ページ上部に戻る トップに戻る