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under chequered flag

27.MAR.2011

野球ゲームを巡る旅(2):ドラッキーの草やきう


 将棋盤を挟んで実物の駒を持ちながら将棋を指すのと、コンピュータ上で将棋を指す(ややこしい言い方だがこれを「将棋ゲーム」と呼ぼう)、これは「人間対コンピュータ」のみならず「人間対人間」の場合であってもコンピュータを介して対局する、という意味でだが、この両者の間には埋めがたい大きな溝がある、という事実に気づくのは両方に触れていればそう難しいことではない。相手の顔色を窺いながら指せないとか盤外戦術が使えないといった心情に寄った話ではなくもっと直接でもっと深刻な、文字どおり勝敗を左右する要素が、コンピュータと「実際の」将棋とでは(例外はあるものの)決定的に違っている。禁手、すなわち反則をどのように捉えるのかという問題である。
 将棋の反則は2種類に分けることができ、ひとつは二手指しや利きのないところへの駒の移動、成れないところでの成り、あるいは石橋幸緒女流四段が女流王位戦の大一番で犯した「角で相手の駒を飛び越える」のように、「正規ルールで認められる着手から外れたもの」、もうひとつが二歩や打ち歩詰め、連続王手の千日手など「ゲーム性からの要請や伝統に則ったもの」である。前者は「○○のルールがあり、それに反した」という裏返しの、先天的に必然の反則だが、後者は「○○をしてはいけない」とどこからか決められた恣意的な設定といえる、という分類が可能ではあるのだが、その処置に大差はなく、いずれにせよすべて「即負け」という罰則を科されることになる。どれほど優勢を築こうとも、よしんばあと1手で勝てるとしても、禁手を指してしまえばそれで終わりになってしまうのが厳しいところだ。特に有名なのはテレビという公衆の目の前で起きた2004年NHK杯の豊川孝弘六段対田村康介五段戦だろうか。2三に歩が残っているにもかかわらず豊川が駒音高く揚々と竜取りに2九歩と叩いた瞬間、解説者が奇声を上げ、記録係の動揺した口上と両対局者の放心とともにまだ終盤の入り口に差しかかったばかりのはずだった対局は唐突に終わりを告げた。映像を見るとその場にいたすべての人間の動揺がはっきりと伝わってきて趣深いが、この例のように将棋において禁手は投了をもってしか贖えないものだ。反則が勝敗に直接帰結する、というのは疑いなく将棋を形作る重要なルールの一つである。
 将棋ゲームでは多くの場合これらの禁手を指すことができず、われわれはかならずルールに従わなくてはならない。プログラムが禁手を予定しておらず、そして当然ながらプログラムにない意図をコンピュータは表現できないからだ。対局を開始し、十字キーやマウスでポインタを動かしておもむろに飛車先の歩をつまんだら、2六にしか動かせないのが電子的な盤上での特徴だ。わたしの所有しているPSP『東大将棋』は王手の見逃し(と時間切れもだが、これはまた別の話だろう)を犯すと負けになってしまうが、反則負けと言えるのはそれだけである。角で他の駒を飛び越したり、利きと違う筋に移動したりはそもそもできない。相手陣に入りこめば成不成の選択が出るが、四段目より手前ならそれが表示されることもないから「成り間違い」で反則負けする心配もいらない。二歩も不可能だ。持ち駒の歩を選択すると、親切なことに打てる筋だけ強調してくれたりもする。
 こうした「将棋」と「将棋ゲーム」の相違は、別に大した問題には見えない。たしかに初手2五歩は将棋のルール上認められない、ありえない手なのだから、そのような手を指せる必要がないという発想は自然なものだと思われる。マウスや十字キーのほうが操作ミスを犯す可能性が高そうだから、できるだけ未然に防止するという観点からいってもじゅうぶんに合理的だろう。だがしかし、「してはならないこと」と「できないこと」は本来おなじではないはずだ。
 禁手は相手に著しい不利益を与える、そしてゼロサムゲームなのだから同時に自らに圧倒的な利益をもたらす手である。それは将棋という世界にとってあってはならないことで、ゲームのあるべきデザインから逸脱している。大事なのはそれが起こらないようにすることであり、即負けで厳しく事後的に罰するルールを設定することで着手を防止しようが、最初から、それこそPSPをひっくり返しても指せないようにしようが、方法が違うだけで規制の目的は叶っているのだからどちらでもかまわないはず、ではある。自動車を入れたくない道路があったとして、その目的を果たす方法は2つ挙げられる、入り口の脇に自動車進入禁止の標識を立てるか、柵を作ってしまうか、どちらにせよ自動車は入ってこず、沿道の住民の安全は確保される。
 しかし物理的な柵は突破できない(こともないだろうが困難だ)が、規範的な制約には罰を承知で違反することができる。進入禁止となった道路の先に何にも代えがたい目的があれば、ドライバーは得られる利益と科される罰則の可能性を天秤に掛けて道路に入るという行動を選択してもかまわない。罰則が軽ければハードルは下がるし、重かったとしても見咎められない可能性に賭けて突破する意思を表明することは自由だ(われわれには法を犯す権利がある)。
 実際、将棋は「見咎められない可能性に賭ける」ことを認めている。禁手に対する罰則は即負け=ゲーム上の死刑という厳しいものだが、しかしそれには「投了優先」という但し書きがつき、だれも反則に気付かず決着したならば遡って勝敗が覆されることはない(*1)。この規定はルールに対する態度を左右する。二歩を承知で底歩を打てば相手の攻めを受けきれるという状況があるとき、気付かれないことを祈ってそれに着手することもできるようになるからだ。勝ってしまえばしめたものである。その確率は間違いなく相当に低いが、しかし万が一もありえないことではない。
「投了優先」は対局が「終わったあと」の処置についてのルールであり、競技の本質とはかかわりがない。これは「将棋ではない部分」にも将棋の勝敗について判断基準が存在することを示唆している。だが将棋ゲームはそうではない。反則を最初から排し、勝敗の基準をすべて内側に取り込むことで、外の世界とのかかわりを遮断している。コンピュータゲームはつまるところプログラムの世界である。書いたようにそこに予定されていないことは起こりようがない。だから「現実」にもある競技をそのまま取りこむと、現実と競技の関係によって可能だった方法がコンピュータではできなくなることに否応なく気付かされる。特に将棋の場合は「現実」のルールがもともとリジッドだからそのことが強調されやすいわけだが、これは同時に世界の外側に短絡されないコンピュータゲームが強固だということでもあるだろう。おなじようなことは野球ゲームでもいえる。




『ドラッキーの草やきう』は、わたしがいちばん愛した野球ゲームだ。「ニューヨークのダウンタウンで過ごし、ソウルミュージックを愛し、ダンスが得意」で、「LOVE & PEACE & それはそうと遊びたい」をモットーとする猫「ネコ・ドラッキー」を中心に、犬やゴリラや象や、果ては蟻までが荒唐無稽の草野球を繰り広げるこのゲームは、一方でコカ・コーラ社が協賛について随所に宣伝が挟まれる――チーム名にしてからが「コカ・コーラ・ドラッキーズ」「ファンタ・ファイヤーポチーズ」であった――など、商業的な意欲作でもあった。イニングの合間に挟まれる猿の実況サクライとコアラの解説スティーブの軽妙なやりとりもゼロ年代的なセンスを先取りしており、明らかに現在でも通用する。おそらく2011年にいたるまでこれを超える発想力を纏った野球ゲームは存在しないのではないかと思う。
 このゲームの肝は、キャラクターを動物として据え、タイトルにあるとおり競技を「草やきう」と割り切ることで、野球の常識的なプレイを意図的に逸脱できたことにある。動物たちは魔球を駆使して打者を打ち取り、あるいは必殺打法で打球を月に直撃させ(これは場外ホームランの演出としてではなく、その打球の勢いから「本当に月まで飛んだのだ」という手応えとしてあった)、かと思えばそんな当たりを2段ジャンプでキャッチしてしまう。一塁方向への打球は二段スライディングで捕球即タッチアウトに追い込める一方で三塁方向にゴロが飛ぶとほぼ確実に内野安打になるバランスの悪さと、そのせいで単調なバント攻勢になりがちなことも、「草やきう」だと思えば受け入れられた(だいたいゲームとはそういうパターンを見つけて攻略するものだ)。ともかくも、特訓を経て二段ジャンプの最高到達点が高くなればなるほど、そしてその成果でもって炎を上げて宇宙に飛んでいく打球を高い位置で捕れば捕るほど、自分の知っているはずの野球が崩されていく自由さに、思わず笑みがこぼれるのだった。
 それほど自由闊達にグラウンドを走りまわるドラッキーだが、同時にそのプレイがすべて「野球」の枠組みの中にあったことがいまとなっては興味を惹く。ひとたびバットがボールに当たれば迷わず一塁へ向かって走り、点を取るためにダイヤモンドを1周する。3アウトごとにきちんと攻守を交代するドラッキーたちの姿勢は、スコアボードよりもはるかに高くジャンプする非常識とは裏腹に律儀なものだ。
 野球のプレイヤーがすべてのベースを踏んで進塁しようとするのは、そうしなければ得点→勝利という条件を満たせないからだが、しかしもちろん、それは物理的な制約ではない。なんなればわれわれはいつでも三塁に向かって走りだせるし、アピールがなければ素知らぬ顔でスコアリングポジションに居座ることだってできる。打った瞬間ホームベースを踏んで得点を強弁することだって不可能ではない。だれにも見咎められない可能性などおよそ皆無だとわかっているから、合理的な判断を働かせてそうしないだけだ。われわれは野球をしつつその枠組みを破壊する権利をつねに保証されながらも、野球をしている自分も含めて守るためにそれを行使しないでおく。だがドラッキーたちはそんな意図を知らないまま、ただただ一塁に向かって走る。
 野球は打順の規則やフォースプレイ、リタッチプレイなど、「しなければならない」ことによってルールを積み上げており、その意味においては将棋に構成が似ている。そしてゆえに、野球ゲームで「できないこと」の性質もコンピュータの将棋ゲームに類似してくる。どれほどキーを乱打しようとドラッキーが右回りに走らざるをえないのは、将棋ゲームで二歩を打てないことと似たようなものだ。野球という概念を現実世界に接続するような権利はドラッキーにない。
 それはもちろん、どんな野球ゲームだって同じことである。だがドラッキーたちはほかの野球ゲームのキャラクターにくらべて圧倒的に「非常識」なのである。『ドラッキーの草やきう』が、「草」と断りを入れ、野球という運動をつねに逸脱するスーパープレイを見せようとも、しかしその振る舞いが結局野球という競技の枠組みに収まり続けることこそが象徴的に見える。あらゆるコンピュータゲームはソリッドなルールの中に閉じ込められてしまう。このソフトにゲームという営為が凝縮されている気がするのは、ファンキーな猫が画面の中を飛び回ってくれるおかげだ。


(*1)反則とは違うが、2006年JT杯丸山忠久-深浦康市戦では、同一局面が4回現れ千日手(本来なら先後を入れ替えて指し直しとなる)が成立したにもかかわらず誰も気付かないまま指し継がれ、結局丸山が打開して深浦勝利で決着した。投了優先のため敗れた丸山が千日手にさかのぼって指し直しを主張することは認められない。


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