1.MAR.2011
野球ゲームを巡る旅:実況パワフルプロ野球2010(PS3/PSP)
「センターオーバーのホームラン、あるいはプレイの饒舌のために」では野球が「運動を一般化するゲーム」で、運動の過程よりも結果を記述することにこそ野球の性質がより正確に受け取り手のもとへと届く可能性を指摘した。
もちろんこれは野球を「やる」とか「見る」とは独立した問題として捉える必要がある。われわれが野球場に足を運んだりテレビを点けてみたりすればあらゆる選手個々人の肉体的な差異や白球に与えられた運動の性質(投球や打球がどこに、どのような角度で、どういう勢いで飛んでいったか)を認識することができるし、野球の魅力は結局そこに行き着くはずである――すなわち「豪速球」とか「滞空時間の長いフライ」とか「流れるような柔らかいグラブさばき」とか「鋭いラインドライブ」とか、そういう形容によって表現される運動に身をゆだねるためにわれわれは野球を見るのだろう。だがだとしても、そうであってもなお、われわれは「いったん地上に触れた打球を二塁手が捕球し、送球ないし直接の触球によって走者あるいは打者走者を進塁義務のある塁に到達する前にアウトにするプレイ」を、その打球の性質や試合のシチュエーションや打った打者の名前にかかわらずすべて「セカンドゴロ」と名付けることができてしまう。大差のビハインドで無気力になった打者がとりあえず転がしただけの力無い打球を緩慢に捌こうと、プレーオフ最終戦、1点入ればサヨナラの10回裏2死三塁でセンター前に抜けようかという当たりをダイビングキャッチから完璧なスローイングでアウトにしようと、それはともに「セカンドゴロ」と一般化できる。一般化の段階で運動の質を問うことは無意味だ。「豪速球」が打たれることもあれば、「滞空時間の長いフライ」や「鋭いラインドライブ」があっさりとセンターに捕球されてしまう場合もあることは、野球ファンが何度も経験しているとおり往々にして起こり、その結果は一瞬の歓喜と直後の溜息の落差とは無縁のままただただ淡々とスコアブックに記入されることになる。そして、野球というゲームはそういう一般を54アウトにわたって積み上げることによってしか成立しない。サッカーのように、プレイヒストリーと無関係に試合終了を告げるホイッスルが吹かれることはないのである。その意味において野球は構造によって支配されているのだとわたしは述べた。あらゆるプレイは、その険易とは無関係に「セカンドゴロ」に代表される典型的な記述のなかに収まるしかない。
あるいは公認野球規則を読むと、その1.02にはいかにも形式的で無意味に見えながらその実きわめて象徴的な文言が記されている。すなわち「各チームは、相手チームより多くの得点を記録して、勝つことを目的とする」。野球とは各打者が打順にしたがって打席に入るたびに断片化されるプレイの連なりからアウトと得点を取り合うことによって成立するゲームだが、公認野球規則1.02はそれぞれのプレイの意図をひとつの焦点へと集約させ、選手にプレイの方向を強いることになる。この条文は、投手がストライクを投げようとしなければならず、二塁手が無走者のシチュエーションでゴロを捕球したならば一塁に送球する必要があることの根拠となる。あるいはインフライトでフェアゾーンの先の観客席まで打球を飛ばすと本塁までの安全進塁権が与えられるが、そこであえて三塁に留まろうとする行為が、どれほど遠慮の心に満ちていても、もしくはもっと功利的に三塁打によってサイクルヒットが達成できる場合だったとしても、認められることがないのは、この条文があるからこそだと言っていい。1.02を純粋に適用すれば、それら勝利を目指さないプレイはスポーツマンシップに則らない卑劣な行為なのではなく(それが言い過ぎならば卑劣な行為であると同時に、という表現にとどめてもよいが)、ただただ「勝つことを目的とする」というルールに対する違反、反則として理解するのが妥当だろう。選手がアウトや得点を狙うのは、たしかに自身の勝利への欲求のためかもしれない。しかし野球規則はそんな選手の欲求に先立って「なさなければならないプレイ」をすでに規定してしまっている。1.02条によって野球のすべてのプレイは規則の下位に包摂され、構造を決定づける。
ここまでの話はすでに書いたことの繰り返しであり、本題ではない。上の議論を踏まえてわたしが確認したいのは、野球を形作る「構造」「概念」「一般」という要素が、そのままコンピュータゲームにも当てはまることである。はたして、けっして長いとは言えないゲームの歴史のなかで数多の「野球ゲーム」が生まれてきたことをわれわれは知っている。野球と野球ゲーム――このふたつはどこまで近づいているのか、それともけっして交わることはないのだろうか。野球が巡り巡ってスタジアムからコンピュータへと舞台を移したことで、競技を覆っていた構造はどのように変換されて画面のなかに姿を現すのだろうか。その観測の一隅とすることが今回のささやかな目的となるだろうと考えている。
われわれが『実況パワフルプロ野球』(以下『パワプロ』)シリーズの画面を思い出すとき、もちろんそこにはいろいろな要素がありうるが、多く念頭に置かれるのは極端にデフォルメされ球状に描かれた2等身の選手たちにちがいないと言い切ってもそれほど見当外れではないはずだ。「パワプロくん」と呼ばれる一見して個性皆無のキャラクターは、時に打者として、また別の機会には――いや、どちらかと言えば"同時の"機会には――投手として、文字どおりゲームのあらゆる場面に顔を出す。フィールド上にいる10~13人のプレイヤーはみな一様に「パワプロくん」で、見た目にかんして区別はない。パッケージのイメージキャラクターとしても君臨しつづけており、2010年に発売されたPS3版/PSP版『パワプロ2010』においても、基本的にそれは変わっていない。
しかし考えてみれば、これだけハイビジョン化が進み、あらゆるゲームが見た目の差異こそにキャラクター性を求めている中で一徹に「パワプロくん」を貫きとおしているその姿勢は異彩の感をもって受け止めざるをえない。「見た目」だけで個人を特定できるように外見を作りこむことが主流の現在のゲームにあって、しかし『パワプロ』はなぜその方法論を放棄してしまえるのだろう。もちろんおなじ会社でリアルを志向する『プロ野球スピリッツ』も製作しており住み分けができているから、というのはひとつの回答になりうるが、そもそも「住み分け」が成立するほど『パワプロ』が野球ゲームとして「ありえてしまう」のはなぜなのだろうか。ダルビッシュ有と松本哲也がおなじように表現されていいなどと、ふつうなら考えない。だが『パワプロ』ならば、彼らはともにおなじパワプロくんと表現されて平然とプレイに参加してしまう。それをわれわれがあたりまえに受け止めてしまうことには、『パワプロ』がプアな表現しかできなかったスーパーファミコン時代から脈々と続くゲームだから当時からの表現に慣れ親しんでいる、という以上の意味があるように思われる。あの丸い頭と丸い体と、丸い手足のパワプロくん、彼(ときに彼女ですらある!)はいったい何者なのだろう。
先に書いたように、「セカンドゴロ」の一般性は野球の構造性によって裏打ちされている。なぜ「セカンドゴロ」という記述が誤解なく成立するのか。それは「公認野球規則1.02条によって」→「野手は全力をもって転がっている打球を捕り」→「なんらかの手段で走者の到達よりも先に一塁に触球するよう努めなければならない」という論理展開でもって、だれにとっても行われうるプレイの典型が理解できるからだといえる。セカンドゴロに限らない。「安打」「本塁打」「三振」という記述は、かならずその記述を成立させるための典型を必要としている。おなじ記述であってもそれぞれのプレイに細かい違いはあるが、しかしそれでも「セカンドゴロ」という記述から抽出できる共通性が野球という競技の核であり、そこでおこなわれる運動の様子を捨象してもなお野球は成立しうるというのが、わたしが「センターオーバーのホームラン、あるいはプレイの饒舌のために」で提示した議論の一つだった。
実際、そのことはわれわれが野球選手をときにその成績だけによって特徴付けてしまう事実によって証明されるだろう。2001年にメジャーリーグでバリー・ボンズが記録した73本の本塁打を、あるいは2004年のイチローが放った262本の安打を、すべて見て、覚えているひとはほとんどいまい。にもかかわらず、われわれはそれだけの数積み重ねられた「本塁打」「安打」によってボンズやイチローがなにをなしえたのかを知ることができる。あらゆる選手にかかわる事象は、「個人成績」として数字の並びへと回収され、その数字自体が事象の意味へとフィードバックされて選手を形作るようになる――われわれは、打率や本塁打といった項目に並べられただけの数字が、その実きわめて雄弁にその選手を物語ることを知っている。いつからか『パワプロ』には、サクセスモードで作った選手に対し打率、本塁打、打点、防御率などの成績を設定して試合対戦中に表示できるようにする機能が搭載されるようになった。たかだか数桁の、一見するとただ恣意的に並べただけの数字が、野球というゲームに取りこまれることによって意味を持つことへの自覚が、このほとんどメモリーを消費しないであろう機能(搭載しようと思えば、いつからでもやれたはずだ)からは見える。野球は、プレイを構造から数字へと落としこむことによって、選手を差異化する。打率.288、41本塁打、127打点という打者と.319、8本、42打点という打者がいたとして、われわれは瞬時に彼らのプレイヤーとしての性質や、金銭的な価値をも判定しうるだろう。それはつまり「プレイのあとに残された数字」こそが選手自身の固有名となるということであり、ゆえに野球ゲームにおいて架空の成績を設定するということは、架空であるにもかかわらず選手の造形を作りこむことよりもはるかに価値の高いリアリティの担保となるのである。
「パワプロくん」がつねに無個性な表情を湛え画一的な動きをしながら、しかしそんなことがいっさい『パワプロ』の瑕疵とならなかったのは、野球という競技をコンピュータゲームのなかに落としこむときにデフォルメできる余剰部分が、「センターオーバーのホームラン、あるいはプレイの饒舌のために」で述べたようにそこで繰り広げられるプレイそのもの、もう少しいえば運動のダイナミズムだからにほかならない。選手の個性はスイングスピードでも放たれた打球の高さでもなく、その打球がどこに落下したか、その積み重ねだけで決めることができる。プレイの省略を推し進めれば『ベストプレープロ野球』になるのだし、逆に余剰的なプレイのエンターテインメント性を強調したいなら『プロ野球スピリッツ』の方向へと振れる。その振れ幅の中でどこに軸を置くかというのが、現代の野球ゲームの味付けということになろう。「パワプロくん」の無個性性は、野球においてキャラクター自身の存在感や運動によらずとも選手たちは固有化される、ということを象徴的に示している。「本塁打王のパワプロくん」と「盗塁王のパワプロくん」は、その修辞によってのみ別人たりうるのだ。
おなじくコナミの手によるサッカーゲーム『ウイニングイレブン』シリーズでは、『パワプロ』の「サクセスモード」のようにゲーム的に選手を育成するのではなく、「エディット」モードで選手を作りカスタマイズするという方法をとるが、初期の段階から選手の身長や顔の造作、髪型や髪色を細かく設定することが可能だった。もちろん実在の(ライセンスが取れていない場合は実在風の)選手はそのときどきの技術力なりに容姿を再現しようという努力がなされ、能力によって披露できるアクションも異なるなど、ピッチに散らばった22人が曲がりなりにも区別されるように描かれていた。
その理由はもちろん、サッカーゲームはそうしなければならないからだ。野球は打順とポジションによっていかなるチームであっても選手を区別できる。次々とおなじ容姿の打者が現れるという一見バグに思えるような状態であっても、打順というたった1桁の数字が1つずれていれば、競技が正常に進行しており、前の打者と次の打者が違うということを一瞬で理解できる。だがゴールキーパーさえ出場していればピッチ上のどこにだれがいてもよく、ボールを腕で操作しなければどうプレイしてもよいサッカーでは、おなじ容姿のコピーは当然に混乱の種となる。自由な振る舞いのなかで同質性が溶けあってしまうからだ。サッカーには個々の選手を構造に内在した記述だけで差異化する方法は存在しない。せいぜい唯一ユニフォームと服するルールの違うゴールキーパーだけだ。だからサッカーで選手同士を区別するには競技自体の本質とはかかわりのない選手の造作に注目するのがもっとも容易な方法となり、サッカーゲームはそのことに敏感だからこそ早くから容姿を設定せざるを得なかったのである(このことは細かな描写が不可能だった最初期のコンピュータゲームにおいてはサッカーよりも野球をテーマにしたものの方に名作が多い理由の切れ端にはなるだろう)。
数字があれば顔は不要だ。ただそれでも、別の要請によって野球ゲームでも顔を必要とされたなら? そのひとつの回答が、『パワプロ2010』PS3版とPSP版で取捨選択された機能のなかにあるように見える。おなじタイトルを冠しながら据え置き機と携帯機をプラットフォームにするに際してもっとも違っていたこと、それは前者だけがシリーズで初めて「オリジナル選手」の顔を決められるようになったこと、同時に後者には残された「マイライフ」モードがオミットされたことだった。
「マイライフ」はその名のとおり一人の選手を作ってプロ野球選手としての人生を歩ませていくモードであり、シリーズの定番で人気もあったことからこれがPS3版から外されたときの反響は、もちろん悪い方向になかなか大きかった。しかしここまで見てきたように「数字/顔」を対置させるとするのなら、「顔を設定できる」PS3版でマイライフが存在しないのはそれなりに筋がとおっている。たとえばいままでマイライフを長い時間かけて遊び抜き、ゲーム内で20年経って選手を引退させたとき、そこに残っていたのは顔などではなく通算成績だったはずだ。プレイヤーは20行にわたる数字の並びだけで、若く実績も信頼もない下積みの時期を堪え、実力を蓄えて栄華を極めた絶頂期を過ぎて、やがて晩年を迎えるさまが見て取れるだろう。野球という競技の構造から導きだされたその数字こそが、その選手が唯一であることを保証する。裏を返せば唯一性が顔というすでに唯一なものとして前提されているなら、野球という人生を送らせることになんの意味があるのか。そんなものは自分自身で引き受ければいいことである。PS3版で顔の存在がマイライフモードを消し去ったことには、そして顔が一律のままだったPSP版でこのモードが残されたことには、一定の意味があるのだ。
とはいえ、もちろんゲームは拡大を求められる。次に出る『パワプロ』では、たぶん「顔もマイライフも」となるだろうし、それはそれで自然な流れに違いない。だが、だからこそいまここにある『パワプロ2010』が、シリーズの過渡期として特徴ある「機能の作りこみ」をしたことに価値を認め、記憶の片隅にとどめておきたい。「パワプロくん」はみなおなじ顔で画面にたたずむ。無個性な彼(ら)は、野球のなかにおいて繰り返し登場し、そしてそのことで野球という競技の粋を露わにしているのである。