FEB.20.2008
教授がニジリゴケに殺される日
『勇者のくせになまいきだ。』(以下『勇者。』)のリリースわずか1週前に大きな期待とともに店頭に並びはじめた『レイトン教授と悪魔の箱』(以下『レイトン教授』)について、その開発元であるレベルファイブがみずからのウェブサイトにインターネット上の攻略情報を削除するよう「お願い」する文章を掲載した。2008年のゲームシーンのなかでちょっとしたニュースになったこのようせいは、当然のようにインターネット上を中心に反発を招いたのだった。
その後あまりに高圧的ではないかという類の批判が思いのほか広がったためかそれともちがう理由からなのか「直接的なナゾ解答の掲載でなければ問題ございません」(しかしこれがひとにものを頼む文章かね)と文面は柔らかく変更されたものの、この「ナゾ解答の掲載について」と題された要請はいまだレベルファイブのウェブサイトに残りつづけており、未プレイのユーザーに「正解」を「知られ」たくないという開発者の意図が少しも弱まっていないのは明らかだ。こういう行為はいかにも愚かだが、ただもちろん、ネットユーザーのあいだで反感を買った程度のことではたんにインターネット時代のメーカー - ユーザー関係を見誤って軽く損をしたメーカーがひとつあるということで終わってもよかったのである。しかし後を追いかけるように発売された『勇者。』に登場するわずか2行の台詞によって、この2ソフトの力の差はどうしようもなく露呈されることになる。
はじまりのとっつきやすさや単純な操作とは裏腹に、無計画に進めていくとあっというまに手詰まりに陥り守護すべき魔王を連れされられてゲームオーバーを喫する『勇者。』のストーリーモードにおいて、しかし知力を駆使してステージ7まで進めてみるがいい。ハシーム、ナタリヤというかつてなく強力な仲間をしたがえみたび挑んでくる「えいえんのルーキー」勇者しょうたをみごと虐殺することに成功すれば、魔窟の奥深くで待機するみょうにオタクっぽくて自分自身はなにもしない、まるでステレオタイプとしてのニートを具現化したような魔王は、「これ以上はまとめwikiでも見てください。そんなのあるかどうか、わかりませんけど」と話すのだった。2ちゃんねる的文化と親和性が高そうでいかにも軽く笑えそうなこの台詞はしかし、『勇者。』がいかにゲームとして優れているかをあっさりと象徴してしまっている。
ここで『レイトン教授』がどのようなゲームであるかいまいちど確認しておけば、「ナゾを解いて」「ストーリーを進めていく」ことが主眼になるといっていいだろう。それらのナゾは(必然性に疑問符がつく場面がないでもなかったが)ほどよくストーリーに組みこまれており、パズルとしてそれなりに優秀ではある。しかし同時に、それらはどうしようもなくたんなるナゾであり、厳然として「正解」が存在するものばかりであった。こういう「正解をもつ問題」は、いちど解かれてしまえばその瞬間に問題としての命を失う。ナゾがナゾでなくなれば、『レイトン教授』はもはやゲームとしての魅力が残らない。レベルファイブは、おそらく開発者であるがゆえにそのことを痛いほど知っていたはずで、だからこそせめて正解の流布を止めようとするしかなかったのだ。
そういう、『レイトン教授』が受けいれなければならなかった振る舞われかたをみれば、もはやなぜ『勇者。』の魔王がニヒルな笑い(たぶん)とともに「まとめwikiでも見てください」と口にすることができたのかは自明だろう。『勇者。』でプレイヤーたるわれわれは、世界を平和にせんともくろむ多くの勇者を迎え撃つために「破壊神」となってダンジョンをつくりあげる。そのときできることは(神にもかかわらず)たったひとつ、PSPの□ボタンを押して土を掘ることだけなのに、ゲーム内の世界に対するアプローチはきわめて自由だ。われわれは、勇者を殺すことさえ忘れなければ、この地下世界をどのように掘り進めてもよい。「まとめwiki」を受容できるのはまさに堀りかたに正解がないからであり、その自由な解のなさは無限の反復を許容する。
そしてもちろん、どこぞの思想家を持ちだすまでもなく反復は強いのである。たとえば10年後、ゲームの思い出を語るプレイヤーの中で、どちらのソフトが口の端に上りそうか予測する必要もない。『勇者。』についてはたぶん、パロディにあふれた章タイトルや、しょうたたちの微妙に無目的的な動きや、ダンジョンに乗りこんでくるときのレベルまで、ぼんやりとではあっても思い出すことができるだろう。これはゲームそのものの魅力とはべつのところ、反復を求めるゲーム性だから起こりうる反応である。20年たっても『スーパーマリオブラザーズ』の隠しブロックを迷わず探しあてることができたり、あるいは『スペランカー』のマップを脳内で再生できるのとおなじことだ。だが『レイトン教授』のストーリーを忘れずにそらんじることは、たぶんできない。このゲームの繰りかえしプレイにみずから耐えようとするなら、つねに内容をいったん忘れるしかないのだから。『マリオ』の、『スペランカー』の、『勇者。』のRe-スタートはまさに反復がもたらす蓄積だが、『レイトン教授』はその蓄積を宿命的に拒否するから、「Re」できない。このゲームの再プレイは、「初回の繰りかえし」でしかありえないわけである。『レイトン教授』が新しいナゾを毎週配信するのは、短い寿命を継ぎ足していくための苦渋の延命措置だったのであり、またそうせざるをえなかったことがこのゲームの限界を示してもいる。ほんとうは「正解を流布される」ことが問題ではなかったのだ。あの「ナゾ解答の掲載について」という短い文が明らかにしたのは、『レイトン教授』がどうしようもなく使い捨てのゲームでしかありえなかったことに対する作り手の恐怖だったのである。
しかしもともと比較する意味のない2タイトルといえば、そのとおりだ。だから『勇者。』で破壊神たるわれわれが手に入れた果てない反復という愉楽を、絶望的に「1回」のなかにしか生きられず、しかもそのことに怯えるしかなかったレイトン氏が理解する日は、そもそもゲーム性がまるでちがうという藉口が通用するかぎり、おそらく来ないのだろう。とはいえレイトン氏のことをおもんぱかってみたくもなる。彼は不思議研究家とのことだが、しかしこの育ちの良さそうな教授がプレイヤーに導かれて収集したあまねく「不思議」は、もはやすでに暴かれてしまった「元不思議」でしかないのだ。UFOは確認された時点でUFOでなくなる。あるいは氏自身はそれでよかったのかもしれないが、皮肉にも彼を生んだひとびとの手によってその事実が白日の下にさらされてしまったことについては、少し不憫に思う。