as red flag - reviews about game

under chequered flag

JAN.23 and FEB.1.2008

ベタ構造はプレイヤーを繋ぎとめることができない


 ラグビーW杯フランス大会は、まさにディフェンスとキックの大会であった。2003年オーストラリア大会からその傾向はあった(よってイングランドが優勝した)が、全体的にロースコアで決勝もノートライ決着に終わった今大会を見ると、その傾向はますます加速したように思われる。決勝戦でペナルティゴールが勝負を左右し、準優勝に終わったイングランドのキーマンが良くも悪くもウィルキンソンであった(南アとアルゼンチンのそれもそれぞれモンゴメリ、エルナンデスであった)ことからもそれは知れよう。積極的にトライを狙いにいくチームはよく練られたディフェンスの網に引っかかり、わずかな前進と停滞を繰りかえすあいだにミスを犯してターンオーバーを喫し、主導権を手にできないままじわじわと点差を広げられていった。世界のラグビーの潮流はいまディフェンスにあり、軽くて速いバックスは受難の時代を迎えている。
<  おなじフットボールでもこんどはサッカーのW杯について1試合平均ゴール数を挙げてみよう。

50年 4.00
54年 5.38
58年 3.60
62年 2.78
66年 2.78
70年 2.97
74年 2.55
78年 2.68
82年 2.81
86年 2.54
90年 2.21
94年 2.71
98年 2.67
02年 2.52
06年 2.30

 と、かつての乱発ぶりから少しずつゴール数を減らしていることが見てとれるだろう。数字だけ見ると62年からずっと2点台で安定しているように感じるが、90年までじわじわと減る傾向にあったゴール数が94年にいったん増加し、その後再び減少に転じていることに注目したい。92年に行われたルール改正によってゴールキーパーがバックパスを手で扱えなくなった、その影響が出ているものと考えられる。
 さらに日本のプロ野球。膨大な量になるので詳述しないが、ずっと野球を見ているひとなら昔に比べていまのほうが1試合あたりの得点が多いことについてすぐ頷いてくれるはずだ。ここ十数年のあいだには飛ぶボールの廃止やストライクゾーンの拡大、球場の巨大化による投手有利の年が何回かあり、そういう年の防御率は改善されているのだが、打者側はすぐに対応して2年としないうちに元に戻っている。
 攻撃をアクション、守備を攻撃に対するリアクションと捉えたとき、以上で見たようにスポーツの世界では競技の成熟度が深まっていくごとにバランスがリアクション側へと寄っていく傾向がある(*1)。上の3競技にとどまらず、ボクシングは6~10回戦にかけて上昇していくKO率が12回戦になるととつぜん低下する(*2)し、柔道にも「後の先」という考え方がある。もっといえば自転車レースで先にアタックするのは勇気が要り、競馬だって先に仕掛けたうえで勝ちきるのは実力がないと難しい。相手の動きを見たうえで対応することは圧倒的に有利で、しかも技術が上がるとその対応の幅も広くなるから、熟達者どうしの戦いではおうおうにして先に動いたほうが負けてしまう。こうなるとお互いにとっての最善手は相手をじっとにらんだまま動かないことになり、へたをするとえんえんと膠着状態が続く。
 これがだれも見守ることのない巌流島での決闘であるならば何時間でもにらみあっていればいいだろう。だがスポーツ、ことにプロスポーツは見せ物であり、それがどれほどハイレベルだろうと、不動の見つめあいに観客はつかない。スポーツにおいて「勝つためになにをしてもよい」という価値観が認められにくいのは、スポーツマンは正々堂々の精神を持つべきであるという高邁な理想があるからではなく、競技者がほんとうに手段を選ばず勝ちにいくと究極的には互いの動きの探りあいになって観客にとっておもしろくもなんともなくなるからだ。柔道の「指導」をはじめ、多くの格闘技で消極的に振る舞うとマイナスポイントを取られることに注目しよう。観客は派手な斬り合い、撃ち合いを楽しみたいから安くないチケット代金を払い、貴重な時間を費やして会場に足を運ぶ。K-1などがなぜ新しい選手の参戦に積極的かといえば、競技に慣れていない選手のほうが攻撃力優位であり、そしてそういう選手どうしの試合のほうが客を呼べることを知っているからである。晩年のアーネスト・ホーストは引退間際でありながらなお強かったが、しかし技術が高すぎたゆえにその試合はおそろしく地味であった。
 スポーツライターの金子達仁は、かつてスポーツニッポンのインタビューに臨んで、「失点を少なくするためのルール改正は一度もない」と答え、現代のサッカーはゴールキーパーにとって「難しい時代」であると発言している(*3)。しかし0-0と4-3のサッカーのどちらがおもしろいのかという答えの明らかな問いがある以上、ルールがゴールキーパーのために改正されることがないのは自明だ。年々減っていくゴール数を見れば、むしろリアクションの強化によって守備側――究極的にはゴールキーパー――に有利になっていく状態を是正するためにルール改正がおこなわれているといったほうが自然ですらある(ラグビーなどトライの点数を増やすほどの工夫をしてなおロースコア傾向は止まらないのだ)。既述のとおり、サッカーW杯ではバックパスルールの改正が一因となって1試合平均ゴール数を0.5点上昇させたが、しかし12年経ってドイツ大会でまた改正前の水準に戻ってしまった。これはまさに、「競技の自然状態においては時間の経過とともにリアクションがアクションを優越する」ということを証明している。平均ゴール数がもっとも少ない1990年イタリアW杯が史上最低の大会と呼ばれてしまうように、こういう傾向は興行や競技の発展性にとってけっして好ましいことではない。
 そしてわれわれはこの現象をゲームセンターなどでもさんざん目にしてきたのだ。




 ゲームセンターを席巻して格闘ゲームブームの走りとなった『ストリートファイター2』をプレイしていたひとたちのなかで、「待ちガイル」ということばを覚えている向きは多いかもしれない。とにかくステージの後端に居座って動かず、遠距離ではソニックブームを連発して体力を削り、近づいてくれば射程の長い足払いで転ばせ、空中戦はサマーソルトキックで迎撃する戦法だ。ひたすらに籠城するガイルはきわめて隙が少なく、とくに飛び道具や一気に間合いを詰める必殺技をもたないザンギエフ使いに地獄を味わわせた。単純なわりに強い戦法だから、ガイルを好んで使ったひともけっこういたのではないか。
 こういう戦法の標準化は、多くのひとが強くなろうとしたとき、つまりゲームに対して最適化を目指したときに起きる現象の典型といっていい。とくに上級者との(あるいは上級者どうしの)対戦は、一撃からの連続技で大ダメージにつながる可能性があり、しかもガードの操作が簡単なためにリードを奪われると後手に回らざるをえなくなるから、どうしてもリスクを伴う攻めがしにくい。遠くから飛び道具を間断なく撃ちつづけている分には安全に相手を削れるうえ、ゲームの仕様上前進とガードの並立は不可能で、隙だらけの相手のジャンプを無敵時間のある必殺技で叩きおとせるとくれば、迎撃戦に向いた要素はそろいきっている。『スト2』で最適な動きを目指そうとしたら、どうしても「ガイルで待つ」という選択肢に行き着くのだ(*4)
 だがこの手の戦術は、とうぜんのごとく画面を地味な色に染めあげ、ゲームの興を削ぐとして非難される。「待ちガイル」に憎悪の炎を燃やす人が多いのはそのためだし、ザンギエフだのエドモンド本田だのバイソンだのを好んで使うタイプだったとしたらなおさらだ。それはある種の逆恨みだけれども(みずからの不合理(ザンギエフがその性能によってそもそも勝ちづらいキャラクターだとするなら、それを選択することじたいが合理性の放棄である)を他人の合理性を棄損させることによって購おうというのは賢いやりかたではない)、ゲームがエンターテインメントである以上、動かないことが推奨される状況が衰退を招くのも事実だ。われわれは楽しみたいからゲームをやるのであって、相手のいいようにやられることをよしとしているわけではない。
 ここで話を少しスポーツに戻そう。サッカーにおいて攻撃力と美しさとファンタジーに相関関係があるかのように認識され、希少価値を与えられていることからも窺えるように、極論を承知でいえば攻撃は才能で守備は努力だ。ロナウジーニョが2005-2006シーズンのヨーロッパを席捲し、しかし次の年に彼擁するバルセロナが無冠に終わったことを思い出そう。2006-2007シーズンでロナウジーニョが輝きを鈍らせたのは、彼自身のパフォーマンスが前年に比べて落ちこんだからだけではなく、彼を止めようとするライバルの努力が勝っていったからでもある。これはあくまで一例だが、ひと握りの才能が発想力で攻撃に力を与え、優秀な多数がそれを研究して遅ればせながら封じていくのがだいたいにおいて競技のありうる姿といっていい。ただアクションを起こせる才能をもつ人間はそれに対応する能力を遅れて身につける人間に比べて数が少ないうえ、発想力と違って研究成果は共有できるから、全体としての最適方向はどうしてもディフェンスによっていく。そうして攻防のせめぎあいが繰りかえされるうちに競技は少しずつ停滞していくのである。今のスポーツが昔よりつまらなくなったと感じることがあるとすれば、それは情報技術・戦略の発達によって最適化=停滞化までに要する時間が短くなっているからだ。
『スト2』も、おそらく最初は攻撃優位で始まったはずである。だが近距離の差し合いがリスクの高い勝負であることにプレイヤーが気づきはじめたとき、「待ちガイル」が採用されてゲームに閉塞感が漂うようになるわけだ。そこから守備偏重の相手を崩し、停滞を打破する方法はあっただろう。だがそれができるのはどうしても一部の上級者――ロナウジーニョのような、とまではいかないまでも――に限られるから、露骨な「待ち」が拡散していくと破ることのできる層とできない層で乖離が生じていく。ここまではスポーツの世界とそうは変わらない。だがだれもが上を目指すスポーツとちがって、格ゲーでは結果的に中級者以下は徐々に撤退していったし、まして戦術が成熟した時点からの新規参入は障壁が高すぎて敬遠されるようになった。
 競技が停滞するのはプロスポーツも格ゲーもおなじなのに、スポーツだけが衰退しない理由としては、プロスポーツとゲームが誰にとってのエンターテインメントなのかという違いを挙げることができる。いうまでもなくスポーツ選手はそれが彼(女)自身の職業であり、引退は極言すれば飢えを意味する。またプロスポーツを楽しむのはあくまで観客で、金を落とすのも観客だ。状況を打破できる能力の選手は金になるし、それを防ぐ価値も高い。もちろん実力が劣る選手も簡単には撤退しないから、競技的に停滞してもその競技を中心に醸成される社会は衰退しないわけである。
 翻ってゲームではプレイヤー自身が楽しむ側であり、ゲームをする機械/機会に金を払っている。つまり楽しくなければプレイしないし、撤退するにあたってのリスクも0だ。だからほかにおもしろそうなゲームがあればなんの躊躇もなくそちらに乗り換える。中級以下のプレイヤーにとって上級者はたんなる障害であり、コインを無為に減らしてまで挑みつづける価値はとくにないので、さっさとやめるという選択肢を選んでしまうのだ。そのうちに上級者よりはるかに数の多いふつうのプレイヤーがいなくなって、もはや経済的にペイしなくなれば、筐体じたいが撤去されて上級者のプレイ機会も狭まる――終焉はこうして訪れる。おそらく全国各地のゲームセンターで見られた光景だ。合理性の帰結として「待ち」的なものが蔓延して全体が停滞し、そこから一部が突出して衰退を加速する、格ゲーはそういう歴史を辿ってきた。これは個々人の飽きというソフトそのものの賞味期限とはちがって、「格ゲー社会」の傾向の問題である。プレイヤーを繋ぎとめておく動機がゲームのおもしろさ以外に存在しないから、競技的停滞は社会の衰退に直結する(*5)
 結局、だれもが強くなりたいと思い、上達という名の合理化と最適化を目指すのに、その努力の結果として象牙の塔ができあがってしまい社会を滅ぼすのだ。この現象は、ゲームそのものが全体として観客の存在を構造的に設定していない以上、ソフトが持つ力とは無関係に不可避である。どれだけ優れたバランスの格ゲーをつくりあげようとも、おなじことは起こりうる。格ゲーがつくりあげる社会は、停滞と衰退を必然的に内包している。


(*1)野球では投手が守備、打者が攻撃だが、アクションを起こすのは投手であり、打者こそがそれに対応する側であることに注意されたい。
(*2)参考、http://www3.point.ne.jp/~tani-hime/boxing/9.shiroutoga.htm。下の級でもラウンド数に比べてKO率の増加率が高くなっていないことにも注目。なお参照先では「過去20年間」となっているが、いつから起算しての20年かはわからない。
(*3)「Sponichi Annex 金子達仁ワイド GK論を展開」。しかしこのインタビューはゴールキーパーをサッカーと別の地平に位置しているかのように扱っていることに首肯しがたいものがある。当然ながらゴールキーパーはサッカーの一部であり、サッカーはゴールキーパーのためにあるのではない。
(*4)もちろん、これは数あるアプローチのひとつである。おなじ方向性から行き着く先としては、「逃げベガ」や「ヒョーバル」などが挙げられるだろう。
(*5)その意味で話の枕としてスポーツの競技的な傾向を持ってきたのは適当でなかったかもしれない。ただ逆に、競技性には適用できるアナロジーが社会性には通用しないという点が格ゲーの特徴を示しているともいえる。



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