28.JUN.2008
それでもリアルを欲するわたし(たち)のために
ここで仮に『METAL GEAR SOLID 4 GUNS OF THE PATRIOTS』に困難が伴うとするのであれば、きわめて精緻に描きこまれたリアリティのある「戦場」が、シリーズを重ねるごとにその傾向を加速させていった結果この最終作でひとつの極致に達したことで、もはや紛うかたなき戦争が繰り広げられていることが明らかなこの場所において、急激に年老いてしまったわれわれのヒーロー=ソリッド(オールド)・スネークを「どのように動かせばよいのか」が見えにくくなってしまった、といってしまうことにある程度の正当性を付与することは可能だと思われる。たとえば前方から敵兵が歩いてくるとしよう。『MGS1』の時代は、たとえスネークがその真正面に茫洋と立っていたとしても、画面右上のレーダーが示している兵士の視界にさえ入らなければけっして発見されなかった。「ふつうなら」どう考えても見えるはずなのに、それでも彼らは侵入者に気がつきもせずに平和な巡回を続けていたのである。そういう、もはや極端に目が悪いとしか思えない敵兵の振る舞いを見届けたから、われわれはいつのまにかレーダーばかりを見ながらプレイするようになったのではなかったか。敵の拠点を素早く抜けるために、兵士の視界ぎりぎりを通って先へ進む。そのときの判断はいかにも「ゲーム的」な理解に支えられていたのである。
いま『MGS4』をプレイするとき、われわれはそこまで自信を持って敵兵の動きを見切ることができなくなっている。そこでほんとうに「われわれ」といいきってよいものか、じつはわたしだけが壊滅的に下手なだけかもしれないという疑問はとうぜん生じてもいいのだが、しかしやはりもうすこし原理的な話でもあって、かつてとおなじように前方から歩いてくる敵兵にいつ気づかれるのか、あるいは目の前に横たわる中途半端な障害物を乗り越えられるのか、小さな隙間に潜りこめるのか、プレイヤーがその判定を下すことの困難さは確実に『MGS1』よりも上がっているのだ。ゲームの世界がリアルになるとはそういうことである。リアルになることでプレイヤーは現実とおなじように世界を捉えようとしなければならなくなり、それと引き替えにゲーム的な観察の機会を失う。
じっさい、『MGS4』序盤に中東でリキッドを暗殺するために戦場を通り抜けようとするとき、ルートの取りかたによってはスクラップと化している乗用車が横転したまま道をふさいでいて先に進めないという状況に出くわしたりもするのだが、高さ2mもないだろうその障害物をスネークが乗り越えられるかどうか、アプローチしてみるまで判断を保留せざるをえないのだ。わたしはプレイのさなかこれくらいならいけるはずだと踏んで自動車に近づき△ボタンを押してみたものの、スネークはむなしく車の底部に張りつき、オクトカムの模様を変えるのみであった。けっきょく目的とする裏通りに進むためには迂回するしかなかったのである。
ここで問題にしたいのは、まさにそのスネークの振る舞いだ。このとき、彼は目の前の障害物を攻略できなかった、それはいい。どんな超人にも能力の限界はある。そうではなく、われわれがスネークに対して抱く苛立ちは、攻略できないことではなくて攻略しようと試みさえしないことにある。あの瞬間、この老兵はなぜ倒れた自動車を乗り越えようとする工夫をわずかでも見せなかったのだろうか。なにをおいても先へ進まなければならない状況にありながらそれを試みないのはあまりに不合理ではないだろうか。われわれがゲームにふと抱くことになる違和感はこのような部分にある。
ゲームにリアリティを感じるとき、われわれは自分の感覚とキャラクターの感覚を近似的に扱えることをいやおうなく期待する、だから――これはおそらく『シェンムー』などでも問題にならざるをえなかったことだが――ゲームの世界があまりにリアルにできていると、「限界」に直面したときにかえって世界に対する違和感を増大させてしまうことになるわけだ。もちろんここで想定される「リアリティ」というのは、ゲーム世界の住人たちが見せる能力のファンタスティックさとは基本的に無関係である。スネークが身にまとうオクトカムの魔法のごとき擬態能力や、ゲーム中盤に見せ場を作る雷電のあまりにヒロイックな殺陣はたしかに「ありえない」ものにはちがいないが、しかしそのありえなさは感覚的に許容される――スネークが活躍する場所ならば存在してもおかしくないと考えることができる。問題になるのはあくまで構成されている世界に対して、キャラクターがどのようにかかわっていくのか、そのしかたにある。つまりリアルなゲーム世界がもたらす違和感というのは、もし自分がそこにいたなら最大限の注意を払うのはもちろんにしてもしかしかならずやるであろうこと、たとえば『MGS4』なら隙間に手を入れてその先を覗いてみようとか、あわよくばうまく崩して通り抜けられるようにしようとか、例に挙げたように目の前の障害物を乗り越えようとか、ぎりぎりの戦場において生き残るための「工夫」をスネークがけっして試みようとしないことから来たりする――われわれは少なくとも自分の把握できる範囲なら世界にたいしていろいろなアプローチをできるが、スネークはそのような動機を持っていないのだ(*1)。
この伝説の戦士は、知るひとぞ知る英雄でありながらどこか牧歌的で、けっきょく世界が動くようにしか行動できない。動くと(プログラム上で)決められているものは動かせるが、そうでないものに対しては完全に無力である(たとえば、資材置き場の材木を崩してしまおうとしない)。もちろんそのことじたいはゲーム的な必然であるので、画面の表示がいかにも記号的であるなら気になるはずもないのだが、しかしこのゲームがリアリティを獲得し代償としてゲーム特有の相貌を捨てた以上、「それがゲームだから」という説明では(理屈としての説得力は持っているのだが)プレイヤーを納得させることができなくなってしまった。「そうなっているのです」といって押しきるには、『MGS4』における世界の相貌とそれにたいするキャラクターの振る舞いの齟齬はあまりにも大きくなってしまっている。
世界のなかで起きていることに対して合理的な説明を提示すること、キャラクターと世界のかかわりかたを納得いくものにすること。ゲームが記号の重なり合いで構成されているのはまちがいないが、それでもいまリアリティを標榜することを目指すなら、ゲームはそのような(面倒な)作業をできるかぎり引き受けざるをえないのだろう。リアリティを渇望しつづけて現実(といっても模倣すべき現実があるわけではない、そこにあるのはつねに「現実のような感じを与える、やはり現実ではない世界」であるのだが、それはともかく)とゲームを近づけようとした結果として強調される違和感を解消するために、ゲームはいつのまにか以前は気にしなくてもよかったはずの説得力を持つ必要が出てきているのかもしれない。そのことはたとえば、「Mission Briefing」やステージの合間などに挟まれる登場人物たちの会話が、スネークを操作しているときのほうが幕なのか幕間なのかわからなくなってしまったほど長くなったことにひとつ現れている。あるいはなにより、キーとなるアイテムのひとつである「メタルギアMk.2(正しくはローマ数字の「2」、以下Mk.2)」を見れば、説得力の付与について腐心したことが窺えるだろう。この光学迷彩でつねに身を隠しながらスネークのあとをけなげについてきている(はずの)少しおどけた黒いロボットは、あきらかに『MGS4』というゲームのリアリティの境界にたたずんでいる。
それはこのロボットがストーリー上で与えられた役割を思い返してみれば理解されるはずだ。詳しい話はネタバレにもなるので省くけれど、ゲーム序盤から、Mk.2はドレビンと名乗る男とスネークを仲介する役割を果たすようになる。スネークは戦場で(死亡した兵士の遺体の側などから)銃器を回収し、その見返りとしてドレビンはスネークに武器・弾薬を売ったり、ID制になっていて登録者以外は使用できないその武器の認証ロックを外したりする。スネークからドレビンへ、ドレビンからスネークへ。単独で潜入任務を遂行する兵士と戦場の露天武器商人。この2人は戦場において物理的に隔たっているが、オタコンの提案が文字どおりだとするならば、運搬役として彼らをつないでいるのはMk.2、ということになっている。取引される武器はこのロボットが運ぶ。
このような事情はゲーム内で漏らさず説明されているが、武器を調達するための方便としていかにも説明的ではなかろうか。つまり、1人で潜入任務をこなすスネークが武器を大量に回収して持ち歩いているというのはあまりに説得力がなく、かといって初期装備のまま突っ走らせるのはゲームの味付けとしてあまりおもしろくないというジレンマを解消するために「後方」を想定しなければならず、こんどはその後方と前線の結合に説得力がいるからMk.2のようなツールを必要としてしまうのである。以前ファミコン時代のゲームについて性能の限界によって突き抜けた設定が生まれた可能性を書いた(2007年12月13日、「採用しない決断は疑いようもなく決断である」)けれども、いってしまえばMk.2のありかたはそれと完全に正反対に位置している。まずアイデアがあり、つぎに辻褄あわせとしてひとつのキャラクターを合わせこんだ感があるのだ。じっさいプレイしてみればあきらかなとおり、「スネークとドレビンの仲介役である」という情報はプレイヤーになんらの影響を及ぼすことはない。すくなくともMk.2が武器をドレビンに届けているという行為については完全に無視してしまっても支障がないのだから。あってもなくても変わりない設定のはずなのに、Mk.2は(「攻略上では便利であること以上の必要性を持たない=なくてもたぶんクリアできる」というありかたを見るかぎり)その設定のために生み出されている。このロボットの存在はほぼ『MGS4』の世界を「解説」するということにおいてのみ証明される。
だがそれでも、Mk.2はたぶんこのゲームのどこかに存在しなければならないのだ。その理由を考えてみるとき、たとえばここで、われわれは10年以上も前のゲームである『ファイナルファンタジー8』を思い出すこともできるだろう。RPGにおいてなかば常識と化していた(しかしこれもおそらくは『ドラゴンクエスト』シリーズの「功績」であるにちがいない)「敵モンスターを倒して金銭を手に入れる」ということにリアリティを見出せなかったのか、このゲームはギルの取得にかんしてひとつのシステムを設定した。知ってのとおり、一定の歩数を歩くと「SeeDランク」に応じて給与が支払われたのである。
これもプレイヤーに違和感を抱かせる可能性をはらんでいた。モンスターが現金を持っているのはおかしい、というのは理屈としては正しい感じを与えるし、ある役職が与えられているのならそれにともなう報酬を受け取ることができるというのは貨幣経済のなかに生きているわれわれにとってそれなりに自然なことに思える。だからそのアイデアじたいになにか特筆すべきところがあるわけではないのだが、『ファイナルファンタジー8』のこのシステムにおいてなお特徴的だったといえるのは、それが「どのように支払われているか」が完全に省略されていたことだ。スコールたちは一定歩数を歩くことでいくばくかの金を唐突に手にした。それはまさに「降って湧いた」ように手に入っていたのである。刑務所で歩いていてもとつぜん給与は支払われたし、それはたとえば口座に振りこまれたのだろうと解釈するにしてもその金はATMもなければクレジットカードも使えなそうな刑務所のなかで使用できた。そもそも「一定歩数歩いたら」支給されるということはスコールたちの行動は逐一監視されてガーデンに報告されているということではないか! そういう疑問はいちいち湧きあがってこざるをえないが、もちろん解決されようとさえしなかったし、われわれもそれを所与のものとしてなんとなく受け入れながら、あるいは納得いく説明をみずから考えながらプレイしていたのである。
その説明不足が許されたのはたぶん、「ファンタジー」であるという便利な口実が通用することに加えて、このゲームの世界がまだあまり作りこまれていなかったこととも無縁ではない。その後『ファイナルファンタジー12』ではモンスターが(それぞれの特徴となかなか合致した)アイテムを落とすようになり、それを素材として売ることで通貨を得るシステムにアイデアが進化し、それなりの説得力を獲得することに成功したと思われるが、そういう世界の相貌についていかにもな合理性を必要とする程度はグラフィックの美しさなどとおおむね比例している。現実との相違からくる違和感を解消するために、世界が進化するならば説得力も進化する必要がある。その意味でこのようなシステムの変化はなかば必然的だ。
結局のところ必要とされる合理性のレベルはそのまま世界のレベルだから、世界が粗雑であればあるほどプレイヤーを納得させるための説明にかかるコストは低くなる。だから『MGS4』が、それこそ『MGS1』のころのようにもっと平面的で記号的なゲームだったとしたら、おそらくMk.2は必要とされるはずがなかった。とりあえずドレビンとビジネスライクな契約が結ばれたあと、スネークが戦場で拾い集めた数々の武器は「なぜか」この武器洗浄人のもとに送られ、「どうやったのかはわからないが」彼から武器を届けてもらうことができる。どこで線引きをするのかの判断は難しくとも、そのような強引な納得が可能なゲーム/不可能なゲームというのはたしかに存在し、その判定は基本的に世界の作りこみによって規定される。『MGS4』はもはやそれが許されないだけの戦場を描いてしまったのであり、だからMk.2はスネークの足下にいるにちがいない。
Mk.2は世界が精緻になったぶん必要とされた合理性を証明するために生みだされた徒花である。そういえば彼(?)はいつも、戦場の苛烈さに比して不釣り合いなほど諧謔的な動きで走り回っているではないか。それは、自分がほんとうなら不必要だったのかもしれず、『MGS4』の世界にたいしてメタ的な存在として生きるしかない道化であることについて必死で伝えようとする、Mk.2のせいいっぱいの訴えなのだ。
(*1)あまり合理的な行動ではないから、と理由付けするには、スネークが武器をすべて外した完全に丸腰の状態でいきなり敵兵の前に飛び出すという自殺志願者のような行動が許容されることの説明がつかない。
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