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JAN.18, JAN.23, FEB.11, FEB.19 and APR.30.2009

マシン/操作されるもの


chapter 1

『クロノトリガー』を買いに行ったのにあまり食指の動いていなかったはずの『ガンダム無双2』もつい買ってしまい、積んでおくのも癪だからプレイするようになって、結果的に自宅でのメインタイトルに収まった……のはまあいいのだが、どうもいまひとつ盛り上がってくるものがない。『ファミ通』のクロスレビューでは満点ひとりの計36点を叩きだしていたけれど、あのページとユーザーとの乖離を指摘するまでもなく、そこまで優れたタイトルかという疑問は残る。
 そもそも、『三国無双』や『戦国無双』に比べ、おなじ無双シリーズでも前作の『ガンダム無双』のできはけっして良かったとはいえなかった。その目に見えてわかりやすい欠点は敵モビルスーツがあまりに乱雑な状態で画面を埋め尽くしているうえに――モビルスーツが現代における戦闘機(+戦車)に相当すると考えると機体にも搭乗員にも相当のコストがかかっているはずだけどこれだけ簡単に斬り捨てているとありがたみもなにもないね、というのは野暮にしても――そのほとんどが棒立ちで斬られるのを待っているだけだったことだと思うが、そういうわかりやすい瑕疵に目をつぶってもなお、良作というには躊躇せざるをえない。
 その理由を探ってみるに、『ガンダム無双』および同『2』最大の失敗は、「美しいプレイから得られる快感」をうまく構築できなかったことにあるのではないかと思われる。やっていることは『三国』『戦国』でも『ガンダム』でもさほど変わっていないはずなのに、売りであるはずの「一騎当千の爽快感」には大きな隔たりがあるように感じられてならない。もちろんたんに作りこみの差ということで結論が出てしまうのかもしれないが、そうだとするとあまりおもしろい結論になりそうにないので、ここではもうすこし概念的に話を広げて、プレイヤーが操作する対象が「人間」であるか「マシン」(※今回の話では機械的な乗り物の意で使います)であるかということのちがいについて考えてみたい。『三国』『戦国』では人間を操作するが、『ガンダム』 ではモビルスーツを動かす。そのことによってわれわれが受け取る感覚に変化は生じうるだろうか。




「ゲームとは操作にほかならない」で書いたように、キャラクターが人間であるかマシンであるかでプレイヤーの操作の意識は変わってくる。それが人間ならば、たとえ違う名前、違う人格を持っていようともプレイヤーは「ロールプレイ」としてキャラクターを自らと同一視できるだろう。われわれは、意識をキャラクターに仮託して世界を飛び回ることが可能だ。ようするに『戦国無双』で真田幸村を操作しているとき、プレイヤーは真田幸村を操作する側であると同時に真田幸村自身でもある。
 翻ってそれがマシンだとすると、そのようなロールプレイは成立しそうにない。心を持たない機械と自分を同一視することの抵抗感ももちろんとして、なにより、マシンはそもそもだれかが操作するものだという意識があるからだ。画面にマシンが映っているとき、プレイヤーはそれをあくまで操作する対象としてのみ扱い、自分と同一の存在と見なそうとはしなくなる。『スペースインベーダー』のあの砲台は、あるいはわれわれが稼働させているとしても、しかしわれわれ自身ではありえない。
 さてこのとき、「ゲーム内世界に存在している、実際にそのマシンを動かしている操作者」が画面から省略されていることはあきらかだろう。ゲームでマシンが動いているということは、ほんらいそれを操作する人間がゲームのなかにいるはずだが、構造的に世界の外側にいるプレイヤーがその役割を奪ってしまうために、架空の操作者はけっして前面に出てこない。レースゲームを思い出そう。そこにはクルマに乗りこんでいる(キャラクターとしての)ドライバーがいなければならないのに、しかしわれわれがコントローラを通じてクルマを直接コントロールしてしまうので、ドライバーの存在は意識されなくなっている。プレイヤーの操作はドライバーではなくクルマの動きに直結していて、わざわざ「ドライバーにクルマを運転させるようにプレイヤーがドライバーを操作」したりはしないし、ドライバーというキャラクターの能力がゲーム性を左右することもない。
 この性質はゲームジャンルとはかかわりがないため、『ガンダム無双』でも基本的には同じはずである。ようするにZガンダムを動かしているのはわれわれ自身であって、人格を持ったキャラクターとして登場/搭乗しているカミーユ・ビダンは、しかしこのゲームにおいて飾りにすぎない。彼をはじめとした各パイロットは演出としてさまざまな台詞をしゃべりはするし、進度に応じて射撃・格闘・防御などの能力を向上させてもいくものの、本質的にゲームにコミットする存在ではないのである。この考察は、どのキャラクターパイロットを選ぼうとゲームの勝敗はプレイヤーの技量によってしか決定しないという当たり前の推定からも導くことができるだろう。『グランツーリスモ』や『Race Drivers Grid』でドライバーの存在感が希薄なのと変わらない。なんなら画面の前で「遊びでやってんじゃないんだよー!」と叫べばすべてが収まる話でもある(ようは『グラディウス』で自分自身をパイロットと脳内設定するのとおなじであるが、この場合にゲームは一人称視点ともっとも相性が良くなるという話は前掲エントリですでに書いたとおり)。画面に映っているのがモビルスーツだけであることからもそのことはあきらかだ。『ガンダム無双』において、われわれは画面に対して一段階メタな視点に立つことになる。しかし、そのことと問題提起した「美しいプレイ」とはどのように関係するだろうか。




chapter 2

人間はみずからの肉体で走るが、そこでの優劣はどれだけよい肉体を持っているかによって決まり、そのパフォーマンスもまた肉体によって表現される。なんどか書いたことをあらためていいかえるなら、「速く走れるひとは速く走ってみせることによってその能力を表現する」という意味で、人間の運動においては肉体の動きとパフォーマンスが一致している。それは、すべての振る舞いが身体で完結している以上とうぜんのことだといえるだろう。
 だが以前にも述べたように、マシンを操作する場合はそうではない。2008年のF1でING・ルノーのフェルナンド・アロンソは同僚のルーキー、ネルソン・ピケJr.を完封(まさに完封で、すべてのサーキットで上位のグリッドについた)したが、アロンソがピケよりマシンを操作する能力に優れていることは、彼らがどのようにクルマを操縦しているかではなく、どちらのマシンが速く走っているかを観察することによって判断される。もちろんメカニックは、テレメトリーでスロットル開度やブレーキングポイント、ステアリング舵角など細かい動作を確認することが可能だ。しかしそこで見ているものはけっきょくクルマの挙動(どのように操作されたかというデータ)であって、ドライバーの振る舞いそのもの(操作しているドライバーの肉体の運動)を直接観察することはかなわない。いや、実際に運動するのがマシンの側であるかぎり、そうする意味もないだろう。さきほどのことばと対置させるなら、「マシン操作の優劣は操作者自身の肉体によってではなく、マシンの振る舞いによってのみ表現される」ということになる。
 そのように表現される操作の優劣について考えるとき、あらゆるマシンが人間にとってオーバースペックであることを意識しないわけにはいかない。歩行者同士の衝突が死亡事故にいたることはよほど運が悪くないかぎりまずありえないのに対し、自動車が関係した事故で命を落とすひとの数は2008年の日本だけで5000を超えた。この悲劇の量の差は、加害者がそのコントロールを失ったという意味においても、被害者がその暴走に抗いきれなかったという意味においても、マシンが人間の能力をはるかに超越していることを示唆している。マシンは人間の機能の拡張ツール(強化された足としての自動車、翼の獲得としての飛行機)であるがゆえに、本質的に人間の手には負えないものとなる危険をはらんでいる。
 しかし裏を返せば、手に負えないからこそそれを手足のように扱ってみせるのに価値があるということでもあるのだ。人間にとってマシンはあくまで外部機構であり、入力と出力はかならずしも直結しないが、操作者の能力がマシンの振る舞いによって間接的に表現されるなら、破綻なくコントロールされたマシンは操作者がそれを高いレベルで扱っていることを教えてくれるだろう。そしてそんなマシンの挙動を見て、われわれはたぶん美しいと感じることができる。昨年10月10日から12日にかけての3日間、富士スピードウェイの100Rから6コーナーにかけての難所をワイドなライン取りと鋭いターンインを両立させながら走り抜けていったアロンソの駆るR28が、きわめて鮮烈な印象を観客やテレビ視聴者に与えたように。
 正確・精密に操作されたマシンは美しく振る舞い、美しく振る舞うマシンは操作者の能力を証明する――操作者とマシンとのあいだにはそのような共生にも近い関係が結ばれている。このことを踏まえた上で、『ガンダム無双』が直面し、乗り越えられなかった課題について見ていくことにしよう。




chapter 3

『ゼビウス』『スターフォース』『グラディウス』
『ツインビー』『R-Type』『バトルガレッガ』

『スーパーマリオブラザーズ』『アトランチスの謎』『魔界村』
『高橋名人の冒険島』『ロックマン』『悪魔城ドラキュラ』


 いずれもゲーム史にその名を残すこれらの作品群は、あらためて説明するまでもなく、上6作は2Dシューティングに、下6作は2Dスクロールアクションに分類される。ここまでの話を踏まえてゲームのタイトルを眺めてみれば、シューティングゲームがマシンを、アクションゲームが人間をキャラクターとしていることにすぐ気づくことだろう。なにもそういう分けかたができるような作品を意図的に抽出したわけではなく、当てはまる例はほかにいくつも思い浮かべることができる。シューティングは『ファンタジーゾーン』『レイドック』『エクセリオン』、アクションなら『忍者じゃじゃ丸くん』『スペランカー』『夢工場 ドキドキパニック』。いくつかの例外はあるにしても(あらゆるソフトをプレイしてきたわけではないのでその例外がちょっと出てこないのだけれども)、ファミコン時代のゲームにおいてはなべて「シューティング=マシン(ほぼ戦闘機)を操作する」「アクション=人間(に類するもの)を操作する」という図式が成立するわけだが、このわかりやすい図式が示唆する両者の性格の違いをもういちど注意深く観察していく必要が、この項では求められている。




シューティングゲームは大まかにいえばアクションゲームの一分野に含まれるが、あえてこの2ジャンルを分けようとするなら、その決定的な分岐点は名称となっている「shoot 撃つ」ところにあるわけではない。「弾丸などを発射する」というのもプレイヤーが選択する行動のひとつとすれば、「シュート」もまた「アクション」に包摂されてしまうと考えられるからだ(ロックバスターはまさにシュートされる)。それよりももっと大きな相違がひとつあるのではないかとわたしは思っている――落ちるか否か、だ。つまり、上下方向への操作性という点において、アクションとシューティングはその性質を異にする、そして、その相違はまさに人間とマシンというキャラクターの相違に対応するのではないか、と考えられるのである。
 1985年の『スーパーマリオブラザーズ(以下SMB)』に代表され、そして2008年の『リトルビッグプラネット』でさえ変わることなく、横スクロールアクションというジャンルは、たいてい画面下方向への重力が前提されてキャラクターがそれに支配されるように作られている。彼(女)らは地面の上を進みながら行く手を阻む敵を排除したり障害物を越えたりすることによってゴールを目指すのが普通であり、行動の選択肢は足場に依存するしかない。逆に足場の設定を無視して「飛ぶ」ことに対してこのジャンルは大きな制約を課している。多くのキャラクターは空を飛べないし、飛べるとしても特殊技能のひとつとして難しい操作や時間制限に縛られている。アクションゲームのプレイは、重力によって下へ下へと押しこまれていく。
 もしかすると、その重力による支配を象徴しているのがアクションゲームの典型的なミスのひとつである「落下死」だ、ということが許されるかもしれない。地面にぽっかりと空いた大穴にキャラクターが吸いこまれていくとき、キャラクター自身もコントローラを握るわれわれも下方向への移動を止める術を基本的にもっていないことは、抗おうにも抗いきれない重力の存在を意識させるに十分だろう(*1)。画面下に消えたら死ぬというルールは、アクションゲームが「下→上」ベクトルの運動をきわめて困難としていることを強烈に主張する。マリオはたしかに驚異的なジャンプ力を誇り、慣性を無視するように空中でブレーキをかけることさえできるのだが、しかしそれでも宙にいるあいだの操作はずいぶんと制限されるし、落ちはじめたら地面まで一直線(放物線?)である。もちろん、着地点の状態によっては一巻の終わりだ。穴に落ちる、着地の瞬間や空中で敵に横から接触する、トゲゾーやパックンフラワーを踏んでしまう――経験的な印象でいえば、地上ステージでマリオが死んでしまうとき、その原因は直接・間接問わず落下関係が大半であるように思われる。
 赤いオーバーオールを身につけたこの配管工が重力に対してかくも無力なのは、彼があくまでひとりの人間でしかないこととけっして無縁ではない。つまり、たぶん「飛ぶ」ことには説明が必要なのだ。キャラクターを飛ばしたいと思うなら、たとえ「魔法」や「気」といった非現実的なものであっても、彼(女)らが飛べる根拠となる設定を提示しなければならない(*2)。『SMB3』ではじめてマリオが空を飛んだとき、彼に尻尾というツールが記号的に付与されたことは、パワーアップアイテム獲得にともなう外見の変化(それもすこし特徴的な)によって飛ぶことをプレイヤーに納得させたいという事情を裏付けているだろう。とりあえずここでは「おなじシステムが現実にあれば飛べるかどうか」という実感に引きつけられたリアリティは不要である。もとより尻尾ひとつ生やしたところで飛べるはずもなく、あくまで「なにかふだんとはちがう状態になる」こと、そしてそのことと「飛行」が記号的に結ばれるという関係だけに着目しなければならない。マリオの尻尾には、状態の差異化(のみ)によって、飛行という行為に説得力を与えようという試みのあとが垣間見える。
 もちろん、マリオが尻尾によって飛ぶことにわれわれが疑問を持たずにいられている以上、この試みはたしかに成功しているという必要がある。だがこれは、差異を導入しないと飛べない=人間が普通の状態であるかぎりは飛べやしない、という意識が根強いということの裏返しでもあるにちがいない。われわれが日常的な常識という物差しでもって「いかなる人間も、たとえそれが超人であったとしても、生身ひとつで重力から自由になることはできない」と信じるかぎり、その信仰がもたらす人間はただ飛んではいけないという思いによって、マリオはひたすら落下していくことになる。いうなれば、落下は人間をキャラクターとする横スクロールアクションが宿命的にたどりついてしまう物理現象としてつねにゲームにつきまとうのである。
 落下関連死がアクションゲームにおいて代表的な失敗である、とはつまり、重力がこのジャンルにおいて非常に重要な役割を果たしていることを意味する。落ちるという強烈な印象を残す現象が、われわれにそれがどんなゲームかを教えてくれるのだ。しかし、まだ話を終わらせるには早すぎる。もうひとつ、落下死と対になるような、成功のためのテクニックがあるではないか――アクションゲームを語ろうとするかぎり、われわれはけっして「ジャンプ」の存在を忘れてはいけない。




 ベルトスクロールシステムを採っているならともかく、奥行きのない2D横スクロールアクションを振り返ってみるならば、ジャンプというアクションのないゲームを思い出すのは困難を極める。冒頭に挙げた6作品はもちろんすべてジャンプができるよう設定されているし、そのほかを考えたところで、すくなくともわたしは思い浮かべられそうもない。せいぜい『ロードランナー』といったところだが、あれはどちらかといえばパズルゲームとしたいところだ。軽く調べてみるとWikipediaにさえ「現在までに多くのアクションゲームにジャンプは存在している」(「アクションゲーム」2008/2/10時点)とあった。主観の排除を旨とするWikipediaにおいて、無出典にもかかわらず見出しまで立っているところが逆に力強い。
 さてそのようにジャンプが実装されている「多くのアクションゲーム」をひとつひとつ振り返ってみると、たいていの場合それがボタンひとつでできる基本的な操作でありながらステージ攻略の核となる究極的なテクニックにもなっていたといまさらながら気づくことになるだろう。ステージの難易度が上がるとともにジャンプの重要度と使用頻度が高まっていくゲームは数多い。引き続き『SMB』を思い出すなら、ダッシュからの大ジャンプで大穴を跳び、逆に狭い足下に気をつけながら細かく渡る。ブロック上のハンマーブロスを下から叩き、クッパの頭上を越えて背後の斧で足場を崩して溶岩に突き落とす。あるいはステージ8、1ブロックでもずれたら奈落の底へ落ちるようにくり貫かれたゴールフラッグ直前の階段(しかも厳しい時間制限もついていた)。そしてなにより、失敗とともに成長しやがて攻略するためにじゅうぶんな機数を確保するべく延々と甲羅を踏みつけることでなされる無限1up。それらはすべてAボタンとともにある。ジャンプを制するものはアクションゲームを制すると断言することさえ、もしかしたら可能かもしれない。
 だがそれも、すべてははじめに遡る。『SMB』のカセットの端子部に息を吹きかけて本体に挿し、一瞬のメニュー画面ののちにステージ1-1をスタートしよう。そのとき、あの軽快な音楽と抜けるような青空を背景に現れる最初の敵を、マリオは、われわれは、どう攻略するのか? もしかしたら歴史上最も多くテレビ画面に映しだされたかもしれないこのシーン――きっとアポロの月面着陸やケネディ暗殺の映像よりもはるかにたくさん再生されたことだろう。アクションゲームは、歴史を生成/精製し過去の一部分として放流するメディアとちがい、つねに手元にある現在として繰り返されなければならないプレイなのだから――でやるべきことは、もちろん完全に定まっている。迷うことはなにひとつない。倒すにせよやりすごすにせよ、先に進むためには跳ぶほかないのだ。『SMB』において、プレイヤーが移動以外に起こす最初のアクションは絶対にジャンプであり、ジャンプなくしてマリオはなにごともなしえない。ゲームをクリアする鍵はまちがいなくジャンプというテクニックを極められるかどうかにあるが、そのことは開始直後、最初の最初から示唆されているのである。
 だから、ゲームのルールに従うようにしてわれわれプレイヤーがAボタンを押したあの瞬間、そこにこそ『SMB』というきわめてピュアに作られた横スクロールアクションゲームのすべてが凝縮されているのだと、その象徴性を主張することにわたしはいささかも躊躇を抱かない。最初の敵が「頭部に弱点を抱えるが対面でぶつかるならめっぽう強く、地面をひたすら歩いてマリオに向かってくる」クリボーであることは、プレイヤーにジャンプの重要性を一瞬で印象づけ、『SMB』の特徴を際だたせている。たしかにクリボーはこのゲームで最弱の敵にちがいないが、難易度の問題とは関係なく、最初の敵はクリボーでなくてはならなかった。というより、最初の敵にふさわしい存在として、クリボーは生まれたのだ。それはとりもなおさず、『SMB』が、敷衍すればアクションゲームが跳躍という振る舞いとともにあるからにほかならない。




 しかしなぜ(2D横スクロール)アクションゲームでは、こうもジャンプが重視されるのか。もちろんそこには、世界にZ軸が存在しない以上そうしなければ敵を避けられないという外的な事情がまずある。だが、後述(次回予定)するようにシューティングゲームのキャラクターはジャンプをしない。跳ぶことを望むのは、いつもアクションゲームである――この問いになんらかの回答を与える必要はあるだろう。
 ジャンプ=跳ぶとは、きわめて動作的な振る舞いであり、状態を示す動詞ではないと判断できる。「飛んでいる」はありえても、「跳んでいる」状態は想定できない。それは写真などで瞬間を切り取ったときにしかありえないだろう。だがどれほど美しいフォームをフレームのなかに固定化したとしても、切り取ってしまった以上もはや動作ではないから、やはり「跳んでいる」ということは不可能だ。「ジャンプ」はつねに離陸~上昇~静止~落下~着陸という一連のプロセスすべてを包括して述べられなくてはならない行為である。
 このプロセスに落下が含まれることが、多くを物語っているだろう。運動エネルギー→位置エネルギー→運動エネルギーという変換がここにはある。「跳ぶ」ことは「落ちる」ことをつねにともなうし、落ちなければ跳ぶこともできない。落下が重力とともにある現象だとするならば、ジャンプは重力と不可分な振る舞いなのだ。アクションゲームのキャラクターが先に進むために跳びつづけるのは、彼(女)らがつねに抗いがたく落ちてしまう存在だからである。ジャンプもまた、落下同様キャラクターが人間であることと強く関係づけられてアクションゲームに組みこまれている。
 先ほど、ジャンプはアクションゲームにおいて攻略のために不可欠な、奥義といっても過言でないほどのテクニックであると述べたが、ジャンプが重力-落下と強く関係している以上、それもとうぜんのことなのだ。ジャンプとは、重力のもたらす不自由に抵抗して攻略の道標を作り出すアクションであり、しかし重力への服従の象徴である落下の開始でもある。落下が重力の強制性でもってキャラクターとプレイヤーに極度の不自由を強いる現象だとするなら、ジャンプはみずからの手であえてその状態に身を置く危険を引き受けようとする行動ということになるだろう。そしてそうすることではじめて、キャラクターは最終的な生還(=クリア)を望むことができる。「いま、この瞬間」の生存可能性を捨てて重力という軛に進んで身を委ねることでクリアの可能性を得ようとする行為、あるいはクリアを手元に引き寄せながら、しかし同時に死の可能性をも側に近づけてしまう操作――それがアクションゲームでジャンプするということである。
 だからわれわれプレイヤーは、キャラクターを跳ばせようとするその瞬間、強烈な覚悟とともにボタンを押さなければならない。アクションゲームで遊んでいれば、ジャンプの操作を誤ると確実に即死という状況をだれもが一度ならず経験しているはずだ。このときプレイヤーは、現在の不可能性を引き受けることで未来の可能性を得る、しかし現在で本当に死んではいけない、というせめぎあいにさらされることになる。その可能/不可能性のあいだを横断するための微妙な親指のタッチを極めることがクリアに繋がるのだとすると、アクションゲームの中核にはジャンプという振る舞いとそれに含まれる現象としての落下、ようするに「重力」の存在が構えていることになる。たとえば『ゲームセンターCX』で、有野晋哉はときに過剰なほど跳ぶことを恐れるではないか。下へとむかうベクトルをつねにもっていることが、横スクロールアクションゲームの緊張感を作り出し、ゲーム性を強く規定するのだ。
 そのゲーム性は、論じてきたとおり「キャラクターが人間であること」によって、プレイヤーによりよく理解されることだろう。人間のキャラクターが配置されることによって、われわれは日常的な視点からゲームを見通そうとすることの正当性を得る。そしていまそれぞれが自覚するとおり、生身ひとつで重力に対抗するにはせいぜいジャンプするしかなく、そうしたところですぐに着地せざるをえない。きっとマリオも――たしかに彼のジャンプ力はすばらしいけれど――おなじ苦悩を抱えているという点で、プレイヤーとキャラクターはたしかに通じている。アクションゲームは、われわれがふだんの生活で感じている物理的な不自由さをキャラクターを通じて画面内でも自覚することによって、成立するジャンルなのである。




chapter 4

 たとえば、1人の少女がいるとする。「魔法」という特別な能力を得て半年あまりのその9歳の少女は、ありあまる素質と努力の末に手にした力の強大さゆえに、年のころおなじくらいかやや下の、赤いドレスを身に纏った赤い髪の敵に狙われることになる。突然の襲撃に戸惑い一度は弾きとばされてビルの屋上から落下してしまった少女だったが、しかしそのさなか首から下げたアクセサリに一声かけると、全身が光に包まれ、姿を変えて宙を舞って、防戦から迎撃へと転じた。最終的には力及ばず敗れ、撃墜されて救援を仰ぐことになるものの、この一件はのちに「悪魔」とも畏れられる少女が自分の力をより高めるきっかけとなった――もちろんファンであるならばお気づきのとおり、少女の名前を高町なのはという。
 アニメ『魔法少女リリカルなのはA's』で展開された「闇の書事件」がはっきりと姿を現しはじめたヴィータによるなのは襲撃において、なのははその初弾と第二撃を、魔法デバイス・レイジングハートを起動しないまま生身でバリアを発動して防いでいる。あるいは『A's』の10年後を描いた『StrikerS』でも、訓練中に暴走した部下に対して、彼女はレイジングハートの展開をリリースし、鬼神のような顔と「すこし、頭冷やそうか」というつぶやきとともに、制裁の魔法弾を直撃させたのであった(そしてめでたく、ファンのあいだで「悪魔」から「魔王」へと格上げされるわけである)。これらの事実は、なのはがバリアジャケットを纏ったいわば「魔法少女モード」とでも表現できるような状態でなくても魔法を使える、ということを示している。実際のところ、『リリカルなのは』シリーズにおいて、レイジングハートをはじめとした各デバイスはあくまで魔導士を補助する役割を担うということだから、それがないと魔法も使用できないということはなさそうだ。アニメでもコミックスでも、訓練中のなのははしばしば通常の状態で魔法を使っていた。
 しかしここで気になるのは、にもかかわらず、なのはとヴィータの邂逅、はじめは敵同士だった2人の戦闘で弾きとばされてビルから落下したなのはが、一刻の猶予もないはずのその状況でわざわざレイジングハートを起動したことである。デバイスのセットアップがなくても魔法を使えるのだとしたら、自由落下という危機的状況から脱却するために、なにをおいても飛行に転じるべきではないか? だがなのははその瞬間、4~5秒(?)という絶望的なまでに危険なロスを冒してでも「レイジングハート、お願い!」と叫び、バリアジャケットを纏った魔法少女モードへと変わることを選んだ。まるでそうすることが飛行の条件であるかのように。
 もう少し振り返って曖昧な記憶を頼りに述べるなら、主たる人物であるフェイト・テスタロッサ・ハラオウンにせよ八神はやてにせよ、『リリカルなのは』シリーズでデバイスを使用する魔導士がそれを起動せずに飛行するシーンは一度も描かれなかったと思われる。『StrikerS』2話のはやてや5話のフェイトは変身してから空に上がったし、おなじく5話ではなのはもヘリから飛び降りながら変身して飛んでいった。はやての守護騎士たちしかり。デバイスを用いないザフィーラを除いては、みな「魔法少女モード」で飛んだのだった(加えて、デバイスを使わないで飛ぶ登場人物がなぜかみな人外の要素をもっていたことも興味深い。狼のザフィーラのみならず、ユーノ・スクライア、アルフ、戦闘機人「ナンバーズ」……)。
 なんらかの飛行原理を思わせるものをわざわざ可視化させるこれらの描写からは、前回書いたような「飛ぶための説明」への欲求が垣間見える。「ごく普通の小学3年生」のなのははごく普通に飛ぶわけにはいかず、そうするためになんらかの機構――レイジングハート、さらに変身後にブーツから生えたフライアーフィン――を介在させる必要があったにちがいない。一般的に人間は重力に対して不自由だから、思考のレベルにおいてもそれに根拠なく逆らうこと=飛ぶことには違和感を抱いてしまう(あるいは『機動戦士ガンダム』シリーズのニュータイプたちが「地球の重力に魂を引かれた」と唾棄していたのは、このような固定化された視点だったか)。もしそこから解放されたいのなら。このときわれわれはどうしようもなくギミックを欲するのだろう。




 ここで、飛行ギミックのもっともわかりやすい形態としてマシンがきわめて有効である、ということは可能だと思われる。「マシンをキャラクターにする」ことによって、われわれは肉体の限界に依存した「常識的な視野で把握される世界」から解放されることになる。第2回で書いたように、マシンが肉体にとって外部に位置し、また肉体を超越するものであるならば、それは人間ができないこと、たとえば、まさに話題となっている「飛行」を、やすやすと違和感なくやってみせてくれるはずだ。キャラクターがマシンの場合、人間のときとちがい説明を要することなく、というよりもキャクラターの存在それじたいによってすでに説明が果たされているために、ただ飛ぶことが可能となる。シューティングゲームがそのキャラクターにマシンを採用するとき、飛行は困難の末に得られる特殊な技能でなく、たんなる前提となるだろう。
『スーパーマリオブラザーズ』と『グラディウス』におけるステージ開始時の自キャラ出現位置を比べてみるのも一興だ。つまりおなじ横スクロールのゲームでありながら、マリオは画面左下で地に立っているのに対し、ビックバイパーはなにかの支えに頼ることなく左中央に颯爽と現れるという事実に、人間とマシンのはっきりとした相違が見てとれるのである。マリオが地面に従って走るのに対して、ビックバイパーは最初から、なんの迷いもなく飛んでしまう(宇宙が舞台、という話はとりあえず措くとして)。『グラディウス』は、そしてシューティングゲームは、飛ぶことではじまる。
 マシンが飛行という振る舞いを前提条件にしたことによって、シューティングゲームでは重力という摂理が意識されなくなった。飛んでいるのだから、自機が勝手に下方向に落ちるようなことはなく、いつでも360度好きな方向に動くことができる。レバーがニュートラルなら自機は中空にとどまったままだし、入力に対してはその方向と量どおりに画面内での座標を変更する。しかもキャラクターが空中にいることがデフォルトの状態であるために、行動に対する制約がほとんど存在しない。たとえばアクションゲームの場合は行動の選択肢が状態に依存するシチュエーションが非常に多い。前回書いたようにジャンプ中での操作は難しく、足場が凍っていれば滑り、狭い場所では助走がとれないし、いざダッシュすると止まりにくくなるといった感じで、キャラクターがある時点でひとつの状態にあることが次の瞬間の行動可能性をある程度規定してしまうのだ。しかしマシンが空を飛ぶシューティングの場合、当然ながら地面の状態にアクションが左右されることがないため、キャラクターを動かせる方向や量といった操作性は、いま画面内のどこにいるかという条件とは無関係に一定である。そこではつねに、能力の最大値で動けることが約束されている。
 アクションゲームに状態依存的なシチュエーションが多く、シューティングはそうではない、このことはゲームからのプレイヤーに対する強制力がアクション>シューティングとなることを意味する。つまり、アクションゲームのほうが行動を限定されることが多いのだ。たとえば前回書いたように『スーパーマリオブラザーズ』のスタートからして、プレイヤーはクリボーを踏む/避けるためにかならず跳ばなければならない。それは「お互いが地面にいる」という事実から導かれる、絶対の、抗いようのない行為として最初から/最後まで決定されている。ほかにも敵や落とし穴の攻略、あるいは高台への移動など、アクションゲームはたびたび「それを選択しなければ絶対にクリアできないアクション」を固有的にプレイヤーへ要求する(そしてそれが往々にしてジャンプだからこそ、ジャンプはアクションゲームの奥義となりうるわけだ)。だがシューティングはどうか? もちろん目的レベルにおいて強制性はある。敵弾にあたってはいけないし、ボスを倒す必要もあるからだ。とはいえ手段のレベルにおいてもそれが発揮されると主張するのは困難にちがいない。クリアに到るには敵の攻撃をかいくぐって生き残らなければならないが、そうするためにはたんに敵本体および敵弾が「x=a, y=b」の位置にあるとき自機をそれ以外の座標に置けばいいだけのことであり、そのためのアプローチは無数にある。もちろんセオリーが否定されるわけではなく、たとえば弾幕シューティングなどでは計画的に敵弾を避けていかないとある瞬間に詰むことにもなるだろうが、アクションのように「落とし穴を越えるときに「ジャンプという行動を選択しなければならない」」といった「唯一の操作」をシステムの側から要求してくることはまずない。ほとんどすべてのことはレバーの向きと加減、ショットボタンの組み合わせでこなすことができる(*3)
 重力という制約によってコントロールの一部を強制されているアクションに比べ、シューティングはキャラクターの振る舞いへの規制が少ない。前回「上下方向への操作性という点において、アクションとシューティングはその性質を異にする」と、この話をスタートさせた。まさしく、両ジャンルの差は「レバーをほんのすこし上に倒すと、自機も同様にほんのすこし上に動く」というシューティングの操作感に象徴されるだろう。このあまりに気軽な上方向への移動は重力による上下運動の抑圧にさらされるアクションのそれと対極にある。シューティングでは、手元の入力(レバー操作)と画面上の出力(キャラクターの動き)が感覚上完全に一致し、プレイヤーはキャラクターを思いどおりに動かすことができる。
 ここまでくれば、もはや明らかだろう。シューティングゲームは、不自由への自覚から生じるアクションゲームと対照的に、あるひとつの世界において自由をほしいままに体現するジャンルなのだ。この自由はもちろん重力に抗うこと――つまりキャラクターが「飛ぶこと」によって、というより「プレイヤーに「飛びそう」と思わせること」によってもたらされたものである。飛ぶことのできない不自由な人間は、しかしマシンという機構を手にしたとき、能力の限界を超えて空を羽ばたくことができるようになる。シューティングゲームのキャラクターがマシンであることは、プレイヤーにはっきりとそのことを認識させ、自機を自在に振り回せる可能性を教えるだろう。飛行はときに自由の象徴である。そして、飛行を象徴するもの、それはマシンなのだ(*4)




chapter 5

 シューティングゲームの典型的なプレイ画面を思い返してみたとき、その「自由な振る舞い」を象徴するものはなにかと問うならば、それは「シューティング(=撃つ)」というジャンル名とは裏腹にじつのところ「避ける」という行為にあると答えることができる。2009年現在で活況を呈しているもので例に取るならたとえば『東方』シリーズなどを挙げられる「弾幕シューティング」がプレイヤーや観客にカタルシスをもたらす瞬間は、断じて敵を倒したときではなく、隙間なく押し寄せてくる弾丸のカーテンを、しかしドット単位の細かな操作で華麗に回避して切り抜けるときである。べつに「弾幕」にかぎらずとも、シューティングゲームを攻略するために必要なテクニックに優先順位をつけるなら、回避が射撃よりも上に来るのは間違いない。それはゲームの構成を見ても明らかであり、つまり多くの強制スクロール型シューティングゲームはショットボタンを押さずにクリアできる(とまではいかなくとも理屈上は進めるし、少なくともボスなどのイベントバトルまでは進める)ように設計されている。
 これは「マシンを操作する」ということによって成立するシューティングゲームのありかたと無縁ではない。第2回で書いたことを繰り返すと、「正確・精密に操作されたマシンは美しく振る舞い、美しく振る舞うマシンは操作者の能力を証明する」。シューティングゲームが戦闘機のように肉体に対して外的なギミックでプレイされるかぎり、その美しさをもっとも際だたせるのは手元の細やかな操作とキャラクターの微妙な動きが一致したことが明確になる瞬間である。外的な機構であるにもかかわらず操作者の意思と完全にシンクロしているということが明確に観察されるときに揺さぶられる情動。モータースポーツの競技としての美しさが優れたドライバーがコーナーでラインをトレースしていく様子に凝縮されるとするなら、シューティングゲームのそれは、なによりも激しい敵の攻撃を回避することによって証明されることになる。
 話を『ガンダム無双』に戻そう。知ってのとおり『無双』シリーズは「単身で敵軍に斬りこんで四方から押し寄せる相手を潰していく」というアクションの繰りかえしで展開されていく。もちろん『ガンダム~』でも例外ではないわけだが、そういう基本的な設計や、キャラクターに耐久力というパラメータが設定されていて敵を倒しつづければそれを回復する手段が手に入る(あるいはフィールドに回復アイテムが落ちている)という事実から明らかなように、このシリーズでは少々のダメージは許容される、というよりダメージを受けるということが必然の前提として置かれている。避けることに時間を割くくらいならダメージ覚悟で斬り潰してしまったほうが効率的である場面も多く、「回避」は必ずしも重要なアクションに設定されていない。「回避」こそがマシン操作の美しさと快感の頂点だとするならば、『ガンダム無双』は結果としてそれに真っ向からぶつかってしまう――第1回で指摘した「「美しいプレイから得られる快感」をうまく構築できなかったことにある」というこのゲームの失敗は、マシンを操作している/にもかかわらずマシンの美しさを体現できないという感覚の齟齬から生じているのだ。キャラクターの存在感とゲームシステムが対立せざるをえないところに、違和感の正体はある。
 おなじゲームシステムでありながら『三国無双』や『戦国無双』がそのような齟齬を生じないのは、やはり「人間(肉体)」を動かしているからなのだ。ばかばかしい相違と思うかもしれないが、しかし意外に質的な問題をともなっている。「ゲーム内のマシンを操作する」ということは、画面に表現されない仮想のコクピットに自分を配置することであり、プレイヤーは「見えないパイロット」にこそなれ、描かれているマシンそのものに自分を投影したりはない。その意味でゲームにおけるマシン操作の感覚はつねに間接的だ。「このマシンに乗っている自分」といった具合に、妄想にワンクッションを必要とする(*5)し、レースゲームの項でも書いたように操作体系もそのようにできあがっている。しかしもちろん、人間が描かれていればそうはならない。キャラクターを別人格の存在として扱い自分は傍観者に徹するにしても、自分自身をキャラクターに仮託するにしても、どちらにせよ「プレイヤー」と「キャラクター」はダイレクトに接続される。プレイヤーの操作は、そのままキャラクターの行動へと変換されることになる。
『三国無双』『戦国無双』でプレイヤーが肉体そのものを操作するとき生じる快感の源泉は、マシンを動かすときのような回避を主体とした高速機動ではない――当然だろう、人間はそんなふうには動けやしないのだから。そこでわれわれにインパクトを与えるのは、もっと単純に、強靱な身体を惜しげもなく見せつけることである。敵の攻撃を避けるのではなく受け止める、遠距離から弾をぶつけるのではなく懐に引きつけて斬りつける、人間の内在的な強さは肉体が躍動する振る舞いでこそ理解されやすい。そのような感覚と合致したから、『三国無双』『戦国無双』の「単身敵陣深く斬りこみ、少々のダメージをいとわず武器を振り回して敵を次々とを薙ぎ倒す」というゲームコンセプトは軽やかな爽快感と凝縮された快感をプレイヤーにもたらしたのである。『無双』シリーズは肉体を意識させることではじめてそのパフォーマンスを最大限に発揮するのだ。
 前回書いたとおり、マシンは肉体を超えた機動を体現する機構として象徴的に画面に配置されており、われわれはマシンに独特の出力を期待する。しかし『ガンダム無双』と『三国』『戦国』を見比べたとき、舞台が三国時代か宇宙世紀か、キャラクターが真田幸村かガンダムか、といった程度の相違しか見出せないことは明らかだ。たしかにモビルスーツは人間と相似形をしたマシンだが、しかしそのことと「人間的な動き」にとどまることを許容するかどうかは別の問題で、そこにマシンの疾走感を見てとることは悲しいかな不可能である。
 肉体を超えられる可能性を秘めた機構に、しかし人間と同等の動きしか与えられない。それはあまりに不幸なことだ。根底におなじ設計を持ったシリーズでありながら『無双』のなかで『ガンダム』だけがゲームとしての活力を失ってしまったのは、マシンという概念のありかたを見誤ったからにほかなるまい。


(*1)余談だが、ゆえにゲーム性拡大のための「飛び方」が追求されてきた、とはいえると思う。『マリオ』シリーズだけを見てもそう感じる。
(*2)仮に実際になんの説明もなく飛んでいたとしたら、それをその世界の法則としてプレイヤーが納得しなければならないことは言うまでもない。だが、その納得の仕方にも優劣は存在するのである。
(*3)もしかすると、これは「シューティングっていうジャンルのコアって、操作系の単純さにあ」り、ゆえに「ジャンル内での流動性が超絶高い」(「シューティングの凄さをわかっていない人が結構多い」『不倒城』2008年12月3日)ことの理由まであえて考えてみたときのひとつの回答になりうると思われる。アクションの強制性が排除され、つねにひとつの操作でゲームをまかなえることがジャンル内の操作系に共通性をもたらし、横断性を高めているのではないか、と。
(*4)しかし高町なのはは鮮やかに飛んでみせているのだから、重力から解放される自由な飛行がシューティングゲームの核であるなら彼女がキャラクターとなるシューティングも作りえなければならない、だがそれはもはやマシンではないではないか、といわれる可能性について、このような回答を用意することができる。chapter 2で書いたとおり、マシンの振る舞いは肉体の振る舞いとは無関係になされている。マシンは操作者によって操作されることで操作者の能力を超えることができるが、そのパフォーマンスじたいは操作者の肉体と結びつかない(アクセルペダルを踏むこととクルマが走ることに必然的連関はない)。それはきっと魔法にも当てはまるはずだ。なのはのディバインバスターは、彼女自身の肉体的振る舞いとはなんの関係もなく発射されるのだから。結局のところなのはは、ちょうどパイロットが飛行機を操作するように、魔法を操作しなければならない。
 操作されるものは、人間の能力を超えるために存在する。そうでなければ意味がないからだ(自転車に乗ったほうが遅いなら、わざわざまたがらずとも歩けばいい)。人間は自分の能力以上のものを欲してマシンを手にするのだから、極言してしまえば「あらゆる「操作対象」はマシンである」と考えることができるだろう――ああ、そういえばタイトルに書いてあった、「マシン/操作されるもの」だって。結局、なのはが肉体を駆使せずに魔法を操りつづけるかぎり、『魔法少女リリカルなのは Shooting』は、正当なシューティングゲームとして受容されることになるだろう。マシンとは機械のみをいうのではない。われわれの意思のもとにありながら肉体のもとにないもの、そのすべてである。
(*5)それをうまく昇華できるのが『エースコンバット』シリーズに代表される一人称視点3Dシューティングということになるのだが、ここではべつの問題が生じる。つまり一人称視点の場合「自分がこのマシンに乗りこんでいる」ということが急激に意識され、パイロットとプレイヤーが直結することになるのだ。『ゼビウス』と『エースコンバット』の大きな違いはそのあたりにある。しかしあえて「シューティングの本質は撃つことではない」という冒頭の議論を覆すようなことを述べるならば、このあまりにちがう二者は、しかし唯一「敵を撃つ」というアクションを共有することによってのみおなじ「シューティング」という項を持ちうる、ということになるだろう。


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