as red flag - reviews about game

under chequered flag

21.NOV.2007

均整によって道標は失われる


 ヨドバシカメラ吉祥寺店に行くと、いかにも会社帰りのサラリーマンが『スーパーマリオギャラクシー』を持ってレジに並んでいて、しかもその雰囲気がことごとく「家で待つ子供のために買っていきます」ではなく「これから家でひとりWiiリモコン振り回します」という感じだから、もしかして今のマリオをやりたいのは昔マリオをやっていた人だけなんじゃないだろうかと疑問が湧く。それはともかく、かくいうわたしも購入するかどうかを迷っていて、しかしいまひとつ踏み切れないのは、かつてのマリオプレイヤーがいまのマリオに対応できるか計りかねているからである。もっというなら『スーパーマリオブラザーズ』(以下『SMB』)といまのマリオに感覚的な連続性はあるのか、ということが気になるのだ。
 わたしは1981年生まれなので、『SMB』を発売当初からプレイしていた最後の世代に属すると思われる。少なくともここまでの世代は、「Aボタンでジャンプし、敵を踏む」ということを当たり前にこなせるはずだ。あらためていうまでもなく、『SMB』のマリオは、敵を踏んで倒すことができた。それはゲームをやる人にとって体に染みついた基本中の基本、完全な常識だが、しかしじつのところ、そういう動きは人間の生理に根ざしたものではない。まさか喧嘩のときに飛び跳ねて相手を踏みにいく人はいまい。敵を倒そうと思ったら、普通は殴るか蹴るかするのである。
 もちろん『SMB』ではそれができない理由があった。ファミコン程度の性能とマリオの(あのヒゲ面を際だたせるための)頭身、さらにキャラクターと画面の比率では細かい動きがまともに表現できないから、パンチやキックを描きようがなかったわけだ。ゲームをおもしろくするためには体全体を使ったわかりやすいアクションが必要であり、それがマリオでは「身長の何倍もの高さをジャンプして、敵を踏みつける」ということだったに過ぎない。
 そういう意味では、マリオの動きが表現上の制約から生まれたある種の妥協だったことは間違いない。しかし結果として、この立派な口ひげを蓄えた赤いオーバーオールの配管工(*1)は特徴的な身体を手に入れた。彼は横からの判定ではあらゆるものにやられる代わりに、(トゲや炎でなければ)あらゆるものを踏むことができる。そう、マリオは最弱の肉体と、そのなかで不自然なほど強い「足の裏」の持ち主となったのだ。そしてその非常にアンバランスな体は、にもかかわらず、いやむしろそれゆえにプレイヤーの道標として機能したのである。
 この突出した身体の特権化(=アンバランスさ)によって、子供だったわれわれもちょっとデモを見てプレイを始めるだけで取扱説明書を読むよりもはるかに簡単に『SMB』でやることを理解した。つまり、「このゲームは敵を踏んで倒しつつ右(*2)に進んでクリアするんだ(きっと先にはゴールがあるだろう)」と、直感的に知ることができたのである(*3)。一点だけが強く、他が弱いという特性は、その一点を生かす方向にプレイを誘導してくれる。「ジャンプして、進め」。プレイヤーは誰に教えられることなく、自然とそのアクションを選択していった(だからマリオのプレイはつねに画面右上への指向性を持つ。『SMB』各ステージの1~3エリアにおいて、いったん階段を右上に登ってからゴールのフラッグに辿りつくようになっているのは偶然ではない)。マリオは跳ぶことによってヒーローとなり、同時に跳ぶことによってしかヒーローになれなかった。われわれはそういう『SMB』をプレイし続けることによって、マリオの動かし方を体に叩き込まれたのだ。
 時が経ってハードが進化し、『SMB3』や『スーパーマリオワールド』ではアクションの幅が広がった。それでもあいかわらず身体で直接敵を倒すには「踏む」以外になかったから(ただし『~ワールド』では急降下中に限り「腹」でもよかった)、そのプレイを軸にして新たな動きをスムーズに習得できたはずだ。そうやって昔からマリオをプレイしつづけてきたわれわれ以上の世代は、その足の裏を頼りに自らの腕を磨いた。それだけの特権性を帯びた身体を、いまのマリオは獲得しているだろうか。
 実際に『スーパーマリオギャラクシー』のマリオを店頭デモを見てみると、画面のなかを所狭しと暴れ回り、あまつさえ回し蹴りで敵を倒したりもしている。あののんきに片手を上げるジャンプとセットになった足の裏の強さも相変わらずではあるものの、どうも比重は明らかに軽くなっているようだ。敵に立ち向かう方法はさまざまで、おそらくかつてのシリーズに比べてできることは格段に増えているのだろう。それは表現の幅が広がったということであり、幸せな進化には違いない。
 しかしもしマリオが20年前よりパワーアップして「普通の超人」になったのなら、それは逆に特権化された「象徴」だった足の裏が「特徴」にまで相対的な地位を下げた、ということを意味しよう。バランスが良くなった(そういえばスピンオフしたスポーツ系の『マリオ』でマリオがバランス型のキャラクターになっているのはどういう皮肉なのか)ということは、円形がそうであるように「引っかけづらい」ということであり、多様なアクションの存在は同時に核となるアクションの不在を伴う。マリオが即座にプレイの道筋を思い浮かばせてくれた特権的な「足の裏」を失っていたとしたら、このすっかり垢抜けた多才の元配管工を、直感的な合理性にもとづいて操れるのか。目下の不安はそこに尽きるのである。


(*1)これらも少ないドット数でキャラクターを特徴づける工夫であり、「配管工だからそういう格好」をしているのではなく「そういう格好をしているから配管工」である。『平安京エイリアン』とおなじだ。
(*2)最初期のマリオでは画面が左(=後)にはスクロールせず、いったん前に進むと二度と戻れなかったことも思い出したい。
(*3)ファイヤーマリオはあくまでオプションとしてのパワーアップである。


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